2022年11月27日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
へブル人への手紙3章7節~13節 「『今日』といわれている間に」
1. 詩篇95篇
今日の箇所は詩篇95篇が引用されています。信仰の旅路と出エジプトは、しばしば重ねられます。エジプトの奴隷から、イスラエルの民は解放され、約束の地へと向かいました。しかし、そこから離反する人々が出てきます。約束の地へと向かう旅路の過酷さに、嘆く民の姿が聖書には記録されています。その出来事の一つに「マサ」での出来事があります(出エジプト記17章)。イスラエルの民は、主の導きが示されながらも、目の前にある苦しみに心奪われ、その御声に聞き従いませんでした。その不信仰と不従順のゆえに、イスラエルの民は40年間荒野を放浪することになりました。その時に主に反した人々は、約束の地に入ることを許されなかったのです。この時のイスラエルと教会とが、重ねられています。
2. 安息の外
神は約束を違えません。しかし、私たちの方が神を信じ切れないのです。従わなかった人々は「わたしの安息には入れない」とあります。これは神からの警告です。なぜなら、神のもとを離れることの方が、私たちにとって良くないことだからです。主イエスの十字架の贖いと約束がありながら、そこから離れてしまい、もとの罪の奴隷へと戻ってしまうなら、それは神の恵みを無にすることであり、暗闇へと後戻りしてしまうということでしょう。離れるというのは、イエス・キリストを王とせず、別のものに仕えることです。不信仰な悪い心とは、イエスに反し、離れるということでしょう。そして、こう呼びかけられています。「『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。」
3. 「今日」と言われている間
神に反するのは一人の人の問題ではありません。出エジプトの場面でも、ほとんどの者たちが神への不信仰へと陥ってしまいました。私たちは誰でも、一人ではこの現実に飲み込まれてしまうのです。私たちは、互いに励ましあい、誰も罪に惑わされないように気を配りたいと思います。また、私たちは、主の促しに対して頑なにならないようにしたい、そう思うのです。「今日」もイエスがおられるところには救いがあります。ともに主を礼拝するときに、今、神はここにおられるのです。私たちは、今日という日に、ともに神を崇め、イエスをわが主、わが神と告白し、主の御声に励まされてまいりましょう。
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