2022年11月6日礼拝説教

2022年11月6日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

へブル人への手紙2章5節~9節 「わずかの間」


1. 人とは何ものなのか

私たちは何ものなのでしょうか。人間の存在、いのちの意味をいかに受け止めるのか、そのことによって、私たちの生き方は大きく変わります。世界の起こりが偶然だとすれば、いのちの捉え方はドライに、また時に刹那的になります。輪廻すると考えたとしても、何か善行を積まなくてはならないとその思想は教えます。聖書は「はじめに神が天と地を創造された」と語っています。ここからすべてが始まるのです。神は人を「神のかたち」として創造されました。人をこの地の管理者として置いてくださったのです。私たちのいのちは決して偶然の産物ではありません。人は神に従い、神とともに歩む存在なのです。しかし、人は神から離反してしまいました。そして、この世界もうめきと苦しみに彩られたのです。


2. 来たるべき世

しかし、神はこの世界を放置しませんでした。イエス・キリストを与えて下さり、神の国の到来を告げ知らせてくださったのです。それが「来たるべき世」のことです。ここで詩篇8篇が引用されています。ここで歌われているのは、人間が御使いよりもわずかに欠けがある存在であり、神は万物を人間の支配の下に置かれているという内容です。しかし、この世界には、いまでも苦しみや死の恐怖があり、罪の影響が残っています。けれども、私たちは御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは、十字架を通して低くされ、それゆえに栄光と誉の冠を受けられました。その死は、すべての人のために味わわれたものです。それは神の恵みによるものなのです。


3. わずかの間

しかし、信仰を持てばすぐに神の国になるわけではありません。私たちは「生きる」という苦しみのともなうプロセスを通らなくてはなりません。イエスはそのプロセスを先に通ってくださいました。そのことを「わずかの間」とここで言い表しています。この世界は、「すでに」と「いまだ」の間に位置づけられます。すでに神の国へと向かっていますが、まだそれは完成していません。この間の期間が「わずかの間」なのです。そのわずかの間を、私たちが望みをもって歩むために、十字架の主イエスを神は与えてくださったのです。

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