2022年12月11日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
イザヤ書7章14節、ルカの福音書2章1節~7節 「私たちの場所まで来られた方」
1. 私たちの存在
聖書が私たちに語っているのは、あなたの強さも弱さも、また起こる出来事も、この世界も、誰のものかをまず知りなさい、ということです。すべては神のものであり、神の知らないものではありません。神が創造された世界のすばらしさに目が開かれ、神とともに喜び、驚き、心動かされて生きる。また時に、悲しみ、疲れた時には、すべてを御手に収められているお方、神のもとで安らぎ、その弱さを委ね、神の支えと守りの中を歩んで行く。それが、聖書に学び、神を信じて生きるということです。確かに、私たちはちりに過ぎません。しかし、神はちりにいのちの息を吹き込まれました。私たちは神の作品であり、本来神と息を合わせて生きる存在なのです。
2. 悲惨からの救い
神と私たちとの間には、深い断絶があります。私たちは神を神としない自己中心性を持っています。けれども、私たちはよきものを求めて生きようともします。しかし、人は悲惨な現実を生み出してしまうことさえあります。神は、私たちのそのような姿をご覧になっています。神は、人間の悲惨からの救いとして、イエス・キリストを与えてくださいました。人間の悲惨と神の救いの御手の交錯するところこそイエス・キリストなのです。
3. インマヌエル
キリスト誕生の場面に示されているのは、人を救うという神の約束は、誰も知らないようなさびしいところからスタートしたということです。イエスが生まれた町ベツレヘムには、ヨセフとマリアを迎え入れる場所はありませんでした。追い出され、さげすまれた形で、お腹の子は誕生の時を迎えます。救い主が生まれた場所は「飼い葉おけ」でした。イエスが生まれた場所は、人の悲惨と、神の救いの御手とが交錯している場所でした。神は「暗く、冷たく、寂しく、汚い」場所まで降りてきてくださったのです。イエス・キリストは、私たちの悲惨をともに背負われようとしている「インマヌエル(神がともにおられる)の主」の御姿なのです。
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