2022年7月10日礼拝説教

2022年7月10日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

創世記22章1節~4節 「苦難を通して」


1. アブラハムの晩年

ついにアブラハムに息子イサクが与えられました。そこから数年後、若者となったイサクを全焼のささげ物としなさいという神のことばがアブラハムに臨みます。その理由はここにはっきりとは記されていません。私たちの身に起きる数々の苦難も同じように思えます。しかし、ここでのアブラハムは、神の言葉に対して一切口を挟みません。それどころか即座の反応をしました。翌朝早くに彼は出発をしました。神とアブラハムの関係はとても近く、密接なものだったのです。


2. 全焼のいけにえ

全焼のいけにえとは何でしょうか。この行為には、神への信頼、愛、忠誠、そのすべてが込められています。また全焼のいけにえによって、罪が赦され、神に受け入れられる、そのことが表されていました(レビ記1:4)。なぜアブラハムの晩年に「罪」が問われているのでしょうか。様々な出来事を経て、彼はこれまでの歩みを振り返らされました。彼は信仰の人でした。しかし、同時に「弱さ」を抱えた人でもあったのです。彼は聖なる神の前に、自分はなんと罪深いのだということを悟ったのでしょう。イサクを全焼のささげ物としなさいという神のことばを彼は受け止めました。そして彼は神の命じた山に向かったのです。


3. 苦難から試練へ

出発してから三日目に、モリヤがはるかかなたに見えました。ここまでの道のりは、相当につらいものだったに違いありません。けれども彼はここで一切神に不平も不満も述べていません。アブラハムと神との関係は、昨日今日に始まったことではありませんでした。彼には「すべてのことに神の意志と神の御手は伸ばされている」という確信があったのでしょう。試練の真っ只中にあるときも、この先どうなるかは全く分からなかったこの時も、アブラハムの深い神への信頼はゆらぐことはありませんでした。誰もが苦難に会います。そのときに、私たちはみな、自分と向き合い、真実な神にその答えと救いを求めざるを得なくなります。信仰を持って苦難を受け止めるときに、それは必ずより神を知り、神の恵みに与る「試練」となるのです。

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