2022年7月17日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
創世記22章6節~14節 「見えない方への信頼」
1. 神が告げられた地
アブラハムは息子イサクと二人で、神が告げられた地モリヤへと進んでいきます。息子をささげる、こんな展開は誰も望んでいないものでしょう。こんなことになるならば、神に従ってこなければよかった、そう思っても不思議ではありません。それでもこの時のアブラハムの信仰はゆらぎませんでした。アブラハムの信仰の旅は、目に見えない神を信じ、その先に何があるのかを見いだす旅なのです。アブラハムが、神の言葉に従ったときに、そこに何があらわされ、そして何が彼に与えられるのでしょうか。
2. 問われていること
信仰がここで問われています。それだけではありません。あなたの信じる神は、どんな神なのか?そのこともまた問われています。アブラハムはイサクにこのように答えています。「神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」この言葉にアブラハムの信仰が表されています。そしていよいよ、アブラハムが、その子に手をかける、その瞬間がやってきました。そのとき神はアブラハムの手を止められ、声を掛けられました。「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」アブラハムの信仰を神が証言しています。この物語が私たちに示すのは信仰の高みです。しかし、それはとても大変なことでもあるでしょう。
3. 備えてくださる主
アブラハムの行為の根底にあったのは、必ず神がささげる者に応えてくださるという、神への全幅の信頼、信仰です。その信仰に神は必ず応えてくださるのです。神は、アブラハムの出来事を通して、いのちそのものをささげるということを退けられました。神が欲しているのは私たちの「こころ」です。アブラハムはこの場所の名を「アドナイ・イルエ」と名づけました。その意味は「主の山には備えがある」という意味です。信仰を持つということは、目に見えない方を信じ、期待しようと一歩踏み出していくことなのです。
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