2022年7月3日礼拝説教

2022年7月3日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

創世記20章1節~18節 「信仰とその務め」


1. 繰り返す失敗

私たちは同じ失敗を繰り返してしまうものです。アブラハムも同様でした。妻サラを再び自分の妹と偽って、異国の王に召しいれてしまうのです。ソドムとゴモラに下った神の裁きを見ながらも、アブラハム自身は目の前にいる人を恐れています。次の章ではいよいよ神の約束が実現します。アブラハムの神への誠実さが、神の約束の実現をもたらしたのではありません。そうではなく、神の誠実さこそが、約束の実現をもたらしたことが、この一件でも明らかとなります。「それでも神は約束を果たされる。」そこに私たちは慰めと安心を覚えます。明らかにアブラハムに非があるにもかかわらず、彼は一言の責めも受けていません。神はアブラハムの側に立ち続けています。私たちは弱く、罪深いことを知っているがゆえに、神に正しい方へと導いていただくのです。


2. 罪の責任

アブラハムは自分で起こしてしまったことの責任を取ることができないでいます。しかし神がその責任を取ってくださるのです。私たちも同様です。私たちも罪を犯します。人間中心に、自分中心に身勝手に生きる私たちが、罪を犯し、また争いを引き起こします。それは決して神のせいではありません。しかし、それでも神は私たちの側に立ってくださいます。キリスト者がいつも覚えなくてはならないことは、「神に赦され続けている」という現実です。


3. 与えられた務め

ここで神は、アブラハムに一つの務めを与えています。それは「とりなし」です。アビメレクは、神との間をアブラハムにとりなすようにと願っています。ここに信仰者に与えられている役目があることを知ります。私たちは神に赦されている者として、とりなす役目が与えられているのです。私たちは、なぜキリストを知り、そしてその信仰ゆえに完全に赦されているのでしょうか。それは個々人の幸いのためだけではありません。私たちに神は大切な役目を与えてくださっているのです。アブラハムも、自分の失敗を誇っているわけではありません。自らの過ちを通してでさえ、神の恵み、赦し、憐れみが、あらわされるのだということなのです。

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