2023年1月29日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
へブル人への手紙4章11節~13節 「神のことばは生きている」
1. わざを休む、止める、静まる
私たちは気が付くと、すぐに自分のわざへと向かい、動き、そしてあわただしさの中へと身を置いてしまいます。完全に、神にゆだねきることができるかと言えば、それも難しいことでしょう。私たちは人として生きる中で、神のかたちを見いだすことができます。トゥルニエは「未完成の苦悩は人間の条件そのものです。」と語っています。私たちは完成することを求めます。それは天への憧れであり、神の国への希望に結ばれていくものなのです。私たちにとって、今完全になることではなく、健全な信仰の成長をしていくことが課題となるのです。
2. 神のことばは生きている
私たちの健全な在り方や信仰の成長を考えるときに、神のことばは必要不可欠なものです。神のことばは、私たちの内側を探り、心の思いやはかりごとを見分けることができます。何が私たちの思いなのか、何が神のみ思いなのか、私たちはみことばによって探られるのです。それは、罪ある自分を見いだすことでもあるでしょう。しかし、同時に、神の赦しの宣言と主イエスの福音を聞くことにもなります(ローマ5:20、21)。
3. 神の前での申し開き
神の目にはすべてが裸とされています。これは、エデンの園での人の姿と重なるものです。それは一方で恐ろしい響きをもっています。しかし、主イエスは私たちの身代わりとなり、十字架の贖いと赦しを与えてくださいました。それは私たちが福音として聞いているものです。では私たちは何を神の前に申し開きするのでしょうか。これは、主イエスが語られたタラントのたとえにも通じています(マタイ25:14~30)。神は、私たちに委ねられたものを、私たちが土に埋めたままで待っていることを望んでおられません。私たちが申し開きをするのは、主に赦された者として、神の子とされた者として、どのような歩みをしているのか、ということです。それは決して私たちを責め立て、追い立てるためのことばではありません。神の恵みを思い、主の愛が注がれていることに感謝し、私たちの向きを正すためのことばなのです。
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