2023年6月25日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
へブル人への手紙10章19節~25節 「集まることをやめず」
1. 贖われた者として
イエスの十字架によって完全に私たちの罪は贖われ、赦されました。私たちは十字架によって、大胆に聖所に入ることができるようになったのです。これは「新しい生ける道」です。私たちが今礼拝をささげることができる、それも、すべては十字架の恵みなのです。ここに表されているのは、私たちの礼拝者としての姿です。四つのことがあげられています。一つは、心に血が振りかけられ、邪悪な良心がきよめられること。二つ目に、からだをきよい水で洗われたこと。三つ目に、全き信仰をもつこと。四つ目に、真心から神に近づくことです。
2. 四つのこと
一つ目は、真心から神に近づくということです。私たちは、十字架を通して神の愛に気づかされます。神の愛は私たちの心を変えます。あなたを愛する神に応えるために、良いことを成すのです。二つ目は、全き信仰ということです。それは正しいことを信じるということでしょう。それは十字架の主イエスを信じる信仰です。この方を知り、そして信じるところに「全き信仰」があります。三つ目は、心に血が振りかけられ、邪悪な良心がきよめられることです。私たちの心には、主イエスの血が振りかけられています。その血によって、私たちの良心はきよめられます。私たちの生き方や行動には、心が関係しています。私たちの心は十字架によってきよめられる、その神の宣言を私たちは聞かなくてはなりません。これは私たちの生き方、そして行動に影響を及ぼします。最後は、からだをきよい水で洗われたということです。これは洗礼、バプテスマのことを言っています。それは私たちがキリストの弟子とされているということでもあるのです。
3. キリストの弟子たちの集まり
そこでこの手紙は、キリストの弟子として希望を告白し続け、愛と善行を促すために、互いに注意を払うように教えています。私たちは集まり続け、励まし合うのです。教会は、どんな時でも、主イエスにある希望を告白する者たちでありたいと思います。また、教会でなされることは、悪意や敵意、反目や分裂ではなく、神の喜ばれる愛と善行でありたいとも願います。私たちが神の愛に応えていくことは、具体的な愛と善行へとつながるのです。そして、そのために私たちは互いに注意し合う必要があります。それはキリストにあって、一つのからだであるゆえなのです。ですから、私たちはますます集まることをやめず、励まし合う群れとなってまいりましょう。
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