2023年6月4日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
へブル人への手紙9章23節~28節 「再び来られる方を待ち望んで」
1. 天の幕屋
聖書に出て来る「天」とは、神のおられる所を指しています。「天にあるものの写し」と言われているものは何でしょうか。それは幕屋の中の聖所であり、そこは天とつながる場所と受けとめられていました。そこは神と会う場所として「きよめられるべき場所」でした。それは神の側のゆえではありません。すべては、私たちが罪あるゆえです。罪ある人が入り、そしてそこで神とお会いする、それゆえに、聖所はきよめられる必要がありました。そのようにして厳粛に、神と人との間にある「罪」という現実は、絶えず意識させられたのです。
2. 天の幕屋
天にある本体は、それ以上にすぐれたいけにえによってきよめられる必要があると語られています。「きよめ」とはどのような意味なのでしょうか。聖書において「きよめ」とは、特別に取り分けるという意味があります。今までは地にある天の写しである聖所を、人間の祭司がきよめ、取り分けてきました。しかし、主イエスが来られて、そこに変化が生じます。ついに天の聖所がきよめられたのです。つまりそこが特別な場所となったのです。キリストは、ただ一度だけ、完全ないけにえであるご自分をささげられました。天の聖所におられる主イエスを通して、直接、私たちは神とつながるものとされたのです。
3. 再び来られるキリスト
けれども皮肉なことに、私たちにとって、このことが神を軽んじることにもつながります。以前のようなものは必要なくなり、何よりも私たちの心が重要であると考えるようになりました。確かに、私たちは、どこにいても、またいつでも神とつながることができます。天の聖所で主イエスが大祭司として執り成してくださっているからです。けれども、それは同時に、私たちが神を軽く扱ってしまうということにつながりかねません。現代において、私たちは聖なる場所、取り分けられた場所を失っています。神と直接つながることができるということは、一層の厳粛さを覚えることでもあるでしょう。そしてさらに主イエスによって贖われ、執り成されていることへの感謝は深まるのです。キリストは二度目に来られる時、救いを完成するために来てくださいます。私たちは、そこに向かって歩みを進めてまいりましょう。
Opmerkingen