2023年7月30日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
へブル人への手紙11章13節~19節 「信仰の人」
1. 信仰の人
どんな人でも神の前には罪人です。アブラハムも弱さをもった一人の人でした。しかし、彼は信仰の父と呼ばれました。それは「真の神を信じた」それゆえでした。ここで語られている信仰とは、主イエスにある信仰です。アブラハムは、キリストにまで至る神、私たちも信じる神を信じました。天地創造の神がおられ、この方から私たちに語ってくださり、この方が私たちに約束を与えられる、という信仰です。「神から」という点が、この信仰において最も大切なことなのです。
2. アブラハムの信仰
アブラハムたちは「この神とともに歩んだ」そのことをもって「信仰の人」と言われています。彼らは、約束のものを手に入れることはありませんでした。それは「神が備えられる都」のことです。彼らは「地上では旅人であり、寄留者である」という生き方をしました。それは、限られた命を越えて、神が必ず約束を果たしてくださることを信じて生き抜く姿です。そこに「信仰の父」の姿を私たちは見出します。神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。ここで、アブラハムの生涯における最大の出来事が語られています。イサクを神にささげる場面です。そこにアブラハムの信仰は表されました。アブラハムは、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」そう考えたというのです。その信仰ゆえに、アブラハムはイサクを死者の中から取り戻しました。
3. 備えてくださる神
神はいのちの創造者であり、神の国、神の都を備えてくださる方です。私たちの生涯は、約束の地にたどり着くその前に必ず通らなくてはならない旅路です。私たちは神とともに歩むすばらしさと神にある慰めを受ける特権が、この信仰ゆえに与えられています。この信仰は、いのちに通じており、その人の生き方や在り方にまで及びます。その出発点は「神」です。私を恥となさらない神がおられるゆえに、この世界は続き、また私は生きることができるのです。そして神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださいました。これがイエス・キリストであるのは、聖書全体が指し示しています。アブラハムは、イサクを死者の中から取り戻しました。それは、神がその身代わりにイエス・キリストをささげたゆえなのです。神の約束と神の誠実さを信じる時に、私たちのうちに力と望みが、また忍耐と赦しが与えられます。私たちもキリストに贖われた者として、この信仰に生きてまいりましょう。
Comentários