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2024年1月21日礼拝説教

2024年1月21日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書3章11節~17節 「子としての歩みの始まり」

 

1. 洗礼者ヨハネの招き

ヨハネはキリストを「私よりも力のある方」、「その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」と語りました。キリストは私たちの心のうちを隅々まできよめる方であると示したのです。そしてイエス・キリストが登場します。イエスは洗礼者ヨハネのところにやってきました。ヨハネからバプテスマを受けるために来たのです。しかし、驚いたのはヨハネです。ヨハネはむしろ自分の方が、イエスからきよめを受けるべきだと考えていました。そのヨハネに対して、イエスは「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです」と答えられました。

 

2. 洗礼(バプテスマ)ということ

イエスが示されたように信仰を持つことにも順序があります。神を知り、自らの罪が示され、神のみこころを求めて歩む、そこには順序があり、また時間も必要です。しかし、それはすべてが分かってから洗礼を受けるということではありません。洗礼は信仰の歩みのはじめに置かれています。それは、イエスご自身が示された信仰者の歩みの模範です。そのことを、イエスは身をもって示されたのです。イエスが洗礼を受けると、すぐに天が開け、神の御霊が鳩のように上に降ってきました。そして、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と父なる神の御声が聞こえました。ここに私たちの信仰のスタートにも起こる光景があります。洗礼はゴールではありません。洗礼は信仰のスタートです。私たちは主イエスの十字架によって罪赦され、聖霊が私たちのうちに与えられます。イエスの十字架のゆえに、私たちの上にも主イエスと同じように、父なる神の御声が響き渡るのです。

 

3. イエスに倣うこと

神の子としての歩みが始まる、それが洗礼、バプテスマなのです。使徒の働き8 章にピリポとエチオピアの宦官のストーリーが記されています。ピリポはエチオピアの宦官にすぐに洗礼を授けています。このことがすべての人に当てはまるわけではありませんが、重要なことは、イエスと同じように私たちの歩みを重ね合わせていくことにあります。信仰を告白し、洗礼を受け、そこから、神の愛する子としての歩みをスタートさせていくのです。鳩のように聖霊が降るということは、平安と平和、そして赦しがそこにあることの象徴です。私たちはこの歩みに招かれています。ご一緒に神の子としての歩みを踏み出してまいりましょう。

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