2024年11月24日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書10章16~23節 「心配しなくてよい歩み」
1. 苦難の予告
イエスは、弟子たちを福音の使者として派遣しました。そこまでは意気揚々とした話です。しかし、次の言葉は急に崖から突き落とされるかのようなものでした。「わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。」そんな酷なことがあるでしょうか。しかし、弟子たちの派遣はそのような側面があると言うのです。それはまたイエスの歩みそのものでもありました。これはただの宗教的な弾圧ではありません。当時の政治や思想、さらに生き方の根本を問うたゆえの対立と摩擦でした。それゆえのイエスのことばだったのです。
2. 心配しなくてよい
「あなたがたはユダヤの地方の法廷に立たされ、鞭うたれる。さらには、ローマの総督、そして王たちの前に連れていかれる。」これもこの後のイエスの十字架の歩みそのものです。イエスは弟子たちを次のように励ましました。「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。」さらに話は過激になります。迫害は激化し、そしてついには死に至らせるというのです。キリストの十字架の後、このことばの通りになりました。しかし、イエスは「心配しなくてよい」と彼らに語られるのです。
3. 弟子として
確かに迫害と殉教という歴史を通して、福音は宣べ伝えられてきました。それほどまでに大切なことがここにあるからです。この福音書のテーマの一つは「弟子」です。私たちもその中に入っています。多くの人は弟子たちのように歩めないと思うかもしれません。この信仰を持つならば、誰もがキリストの弟子とされます。その戦いは、イエスの語った「迫害」とは違うものかもしれません。しかし、激しさや厳しさは異なったとしても、私たちも信仰のゆえの戦いにそれぞれ直面します。その戦いは神の知らないことではありません。その戦いを、キリストもまた経験されました。たとえ恐れがあったとしても心配はしなくてよいのです。私たちのうちには聖霊が働かれ、キリストにある希望が与えられるのですから。
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