2024年4月21日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書5章38節~48節 「敵を愛された方に倣って」
1. 「目には目を、歯には歯を」
同害報復と言われるものです。この考え方は聖書特有というわけではありません。「ハンムラビ法典」にもその記述が見つけられます。これは対等の身分の間でなされていたもので、当時の奴隷と主人、男性と女性、大人と子供の間では成立していませんでした。この考えにイエスは真っ向から挑戦します。
2. イエスの挑戦
右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。下着を取ろうとする者には上着も取らせなさい。苦役を強いるものにはさらに与えなさい。イエスのことばは、私たちの考えを超えたものでした。そして、イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えられました。どのようにして自分を傷つけ奪っていく者を愛し、さらに与えることができるのでしょうか。イエスは、「天におられるあなたがたの父の子どもになるため」であり、「天の父なる神が完全であるように、私たちも同じような者となるため」であると教えられました。すべての人を神は愛し、すべての人に世界を等しく与えられました。しかし、そこでは不平等が生じ、敵対し分裂するという人の現実が起きています。誰かが犠牲を払わなくては、何も変わらない状況が広がっています。
3. イエスと神の愛
誰もそのような役割を担いたくはありません。しかし、イエスはそこにチャレンジをしたのです。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」しかし、そのように命じられても、私たちはそこに踏み出すことができません。だからこそ、私たちにはイエスの十字架が必要なのです。そこに行き着くときに、私たちは信仰の力を見出すことになります。主イエスが、まず敵を愛し、祈り、そしていのちをささげられました。その姿は父なる神の御姿とも重なります。私たちが神のみこころを損ない、神の創造された世界を傷つけ、歪めていたとしても、神は私たちに愛を注がれています。この方を見上げない限り、十字架の恵みを覚え続けない限り、私たちは、敵を愛し、祈る者へと変えられることはありません。主は、そのようなものたちを必要とされ、そして彼らに神の栄光を表してくださるのです。
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