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2024年6月16日礼拝説教

2024年6月16日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書6章13節 「試みにあわせず」

 

1. 試み

イエスが教えられた最後の祈りのパートは、勝利の言葉でも、感謝の言葉でもありません。「私たちを試みに会わせないでください。」試みという言葉はギリシャ語で「ペイラスモス」です。この言葉は「誘惑」という意味としても取ることができます。試練にしても、誘惑にしても、必ず私たちが遭遇するものです。主イエスでさえ「誘惑」を受けられました。では、この祈りを祈れば、私たちの周りから誘惑や試練が消え去るのかと言えば、そうではありません。この祈りは、現実に誘惑や試練があるからこそ、祈るべきであると言われているのです。

 

2. ゲッセマネ

キリストは十字架にかかられる前の夜に、ゲッセマネの園で祈りの時を持ちました。その時、そばにいた弟子たちは、キリストが苦しまれている中、眠気に襲われ寝てしまいます。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」とキリストは弟子たちに諭されました。イエスは、絶えず誘惑と向き合い、また人々のうそや欺瞞、偽善と対峙しました。そこには絶えず衝突があり、戦いがあり、悩みがあったことでしょう。その戦いの先にあったものが十字架です。キリストも祈っていた言葉が、この祈りです。「私たちを試みに会わせないでください。」この祈りこそ、この世にある戦いの現実の厳しさを本当に知っているものの祈りでもあるのです。イエスが求められていたこと・・・それは十字架を前にして苦しまれ、うめき、そして願われた、そのイエスに心を合わせていくことです。そのために、目を覚まして祈りなさいと弟子たちに求められたのです。

 

3. 目を覚まして祈る

この祈りは、決して逃げるための祈りの言葉ではありません。必ずある誘惑、試みに対して、その現実の痛み、苦しみをしっかりと見つめながら、そこになお神の御力とみこころ、そして何よりも神の救いを求めようとする祈りなのです。この祈りが、なぜ主の祈りの最後に位置しているのでしょうか。それは、私たちが、この祈りを通して現実に向き合って生きることが求められているからです。正しく現実に向かい、そこにおいて自らの力に頼ることなく目を覚まし、神の御思いに近く立ち続けられるようにと祈るのです。そしてこの祈りは、個人の祈りで終わるものではありません。この祈りもまた「私たち」の祈りであることに心をとめて、キリストにある希望を祈り求めてまいりましょう。

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