2024年6月2日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書6章11節 「日ごとの糧」
1. 日ごとの糧
「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈った後、私たちは次のように祈るように導かれています。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」急に現実的な必要を求める祈りへと変わったように感じます。イエスは「人はパンのみで生きるのではない」と語られました。これは食べ物を否定した言葉ではありません。「パンのみ」という点が重要です。私たちにとって食べ物は必要です。しかし、私たちは食べ物だけで満たされる存在ではありません。イエスが語ったのは、パンと同様に神のことばが私たちには不可欠であるということなのです。
2. 天からのマナ
出エジプトの出来事の時に、イスラエルの民に与えられた「マナ」を思い返します。この食べ物は、荒野を旅するイスラエルの民に神が与えてくださった日ごとの糧です。このことを通して、イスラエルの民は学びました。私たちが生かされていることには、神の意志があるのだということを。この祈りが私たちに教えるのは、神の意志と神のことばによって、私たちは今日も生かされ、そして生きるためのものが与えられている、という事実です。現代になって、私たちはさらに神への感謝を失っています。それは食べ物だけではありません。発展した文明、社会、工業製品…それらのものでさえ、神が許されたゆえに人が手にしたものなのです。
3. 祝福を求める
主の祈りは、二つの部分に分かれると言われます。前半は、神や神の栄光、神の国についての祈り、後半は、人の必要や人に関すること、そのように分かれているように見えます。神の栄光、神の国、それは私たち人のいのちとこの世界とに結び合わさっています。神の国とこの世界とは無関係ではありません。神の栄光は、私たちやこの世界を通して表されるのです。私たち人には、この世界の管理者としての責任が委ねられています。今日の必要や糧が、私たちに与えられていることは、そのまま神のみこころと直結しています。神が私たちに与えたいのは呪いではありません。祝福です。また、この祈りは「私たち」という祈りでもあります。私だけが満たされるようにという祈りではありません。私たちがみな満ち足りるように、天の父が与えてくださる糧によって、生かされ生きるように、私たちを主の民として養い、そして生かしてくださる天の父の祝福を求めてまいりましょう。
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