2024年9月1日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書8章1節~4節 「わたしの心」
1. 山から下りる
説教を終えたイエスは山から下りられます。山から下りて、そこから日常へと戻っていくのです。それは、濃密なキリストの教えに聞く時間を持ったその後のことです。「イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。」私たちはこの箇所を心にしっかりと描きたいのです。私たちは山から一人で降りるのではありません。先に山を下りられるイエスに従い、そこに集った人々とともに下りる、この光景です。これは今も続けられているものなのです。
2. ツァラアトに冒された人
するとツァラアトに冒された人がイエスのもとへと来ます。この時代、病は罪や悪霊とつながりがあると考えられていました。現代医療の知識はまったくない時代です。「ツァラアトに冒された人」は、特に呪われ、罪深い人と結論づけられたのです。この病に冒されていると判断されれば、その人はもはや普通の生活を送ることはできません。この病を通して見えてくるのは、罪の現実に対して、あまりにも無力な人々の姿です。このツァラアトに冒された人は、普段は人前には出ることはありませんでした。それにも関わらず、彼はこの時、大勢の人々に取り囲まれたイエスの前にやってきました。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」彼は、イエスには力があること、そしてそこに「権威」を見ています。それは「きよくする」ことのできる権威です。
3. わたしの心
彼はイエスにすべてをかけました。イエスは「わたしの心だ。きよくなれ。」と告げます。まるで神の思いを代弁するかのようでした。罪をきよめるのは「神の権威」です。それを神が語られたように「私は望む」とイエスは言いました。イエスのことばには権威がありました。この権威は「罪を赦す」ということを、イエスは示されたのです。イエスは癒されたこの人に「人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」と命じます。それは宮に上り、神が命じられた礼拝をささげなさい、ということでした。これまで、この人が願ってもすることのできなかった宮での礼拝。その礼拝へとイエスは彼を招かれました。イエスの望み、そして父なる神の望み・・・それは、罪赦され、きよくされ、神を礼拝し、神を喜ぶものとなるということです。山を下りて、そこに待っているのはいつもの日常ではありません。そこには、先に主イエスがおられます。あなたの歩むところに主はともにいてくださるのです。
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