2024年9月8日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書8章5節~13節 「権威の所在」
1. 権威
この箇所の中心は「権威」にあります。権威と力、そのことを百人隊長は誰よりもよくわかっていました。彼は異邦人です。その彼がイエスのもとへとやってきました。ここにも百人隊長の姿勢があらわれています。私たちはどうでしょうか。神に祈る、その時に、私たちはどのような姿勢で、どのような思いで神の御前に立っているのでしょうか。私たちが神の前に出ることができるのは、主イエスの十字架の贖いのゆえ、大祭司キリストのとりなしのゆえであることを忘れてはなりません。
2. 百人隊長の願い
百人隊長はイエスに懇願します。彼のしもべが中風を患い、苦しんでいたのです。彼はそのことをイエスに報告します。彼はイエスに、家に来て癒してくださいとは言っていません。まるでイエスの下につく部下のように報告をしたのです。そこで、イエスは答えます。「行って彼を治そう。」ここで驚くべき返答を百人隊長はするのです。彼は「主よ、あなたを私の屋根の下にお入れする資格はありません。ただおことばをください。そうすれば私のしもべは癒やされます。」と答えます。ここに、百人隊長がイエスをどのように理解していたのかがあらわれています。病も罪も悪霊も、そのすべてがこの方のことば一つで動かされる、つまりこの方の権威の下にある、そう捉えていることが分かります。
3. 真の権威の所在
これを見たイエスは、この人のような信仰をイスラエルのうちで見たことがない、と最大級の賛辞を彼に送ります。当時の人々の評価基準から言えば、この百人隊長は決して良い信仰者とは言われなかったことでしょう。しかし、イエスは人々の枠組みを軽々と超えられるのです。さらにイエスは、御国の子らは神の国の食卓に着けず、外に放り出され、泣いて歯ぎしりすると語ります。ここに大逆転が起きています。どのような人であっても、イエスに真の権威を認めるならば、その人は御国の民、神の食卓に着くことができるのです。ここで問題とされていることは権威についてです。信仰とは権威の問題なのです。真の父なる神に全ての権威はあります。さらに、神に遣わされた主イエスに、地上の者たちが従うべきすべての権威はあるのです。私たちは今、何の権威に従っているのでしょうか。神の権威と力を認めること。そこから信仰は出発するのです。
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