2025年1月12日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書10章32節~42節「自分の十字架を負って」
1. 想定されている場面
この箇所で想定されているのは「迫害」です。イエスが弟子たちに語ったのは、迫害を前にしても「心配するな」「恐れるな」という言葉でした。その時のことを思いつつ、イエスは人々の前でのご自身への信仰を問います。信仰にはそのような側面が確かにあります。しかし、イエスは宗教的熱狂をあおるのではなく、冷静に生き方を問うているのです。キリストの生涯を辿るときに、決して人を脅したり、また信仰を強制したり、武力や富の力、また恐怖で人を支配するようなことを一切していないことは明らかです。イエスが十字架へと向かった時やその後の弟子たちの姿を通して明らかにされているのは、真の神への全幅の信頼と、復活のいのちへの望みと確信です。そして十字架のイエスに見出されるのは、罪や悪に対するいのちを懸けた戦い、信仰的な抵抗であると言ってもいいでしょう。
2. 信仰の剣
イエスが来たのは平和をもたらすためではなく、「剣」をもたらすために来たとあります。ここでイエスが語っているのは、人との戦いではなく、罪や悪との徹底的な戦いのことです。「剣」は人を殺めるための剣ではありません。罪と悪に対抗する剣です。罪や悪との戦いの中で、家族が敵となることすらあるとイエスは語ります。人の罪のゆえに歪んだ律法に従うのではなく、神のみこころに従う時に、家族と敵対することすらあるというのです。
3. 自分の十字架
そして「自分の十字架を負う」ようにイエスは教えます。「負う」という言葉は、「つかむ」「受け取る」と訳すことのできる言葉です。つまり、あなたの十字架をつかむようにとイエスは教えています。イエスの十字架の後、その言葉の意味が明らかになります。それは、十字架による罪の贖いであり、神の救いのことなのです。また、それは神のみこころのゆえの「苦しみ」と言ってもいいでしょう。あなたに与えられた贖いと神の救いをつかむことにこそ、罪との戦いにおいて最も重要なことがあるのです。今、目に見えるような激しい戦いはないように思うかもしれません。しかし、日々の歩みには、必ず罪とのせめぎあいがあります。だからこそ、私たちも、日々、自分の十字架とそこにある恵みをつかみ、キリストに従わせていただきたいのです。そして、それゆえに神の国は拡がっていくのです。
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