2025年1月19日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書11章1節~6節「おいでになった方」
1. イエスの宣べ伝えたこと
イエスは何を宣べ伝えたのでしょうか。その中心は、「神の国」の到来の知らせであり、新しい時代の訪れです。また、その新しい時代である神の国にふさわしい生き方をイエスは教えました。その出発点は、これまでの歩みを止めて、悔い改めることでした。そこには、これまでとは異なる困難があるかもしれません。しかし、神はその人を必ず守り、導かれるのです。もう迷うことはありません。恐れずに歩んでよいのだとイエスは教えられました。
2. ヨハネの戸惑い
しかし、そのイエスを見て多くの人は戸惑いました。人々はイエスに力を求めました。その大きな力を使って、ローマ帝国や自分たちの敵を退けてくれることを期待したのです。十字架より以前の弟子たちも同様でした。そして、バプテスマのヨハネも戸惑っていたのです。彼は救い主の道備えをした人です。救い主の到来を招く「荒野で叫ぶ者の声」それがバプテスマのヨハネでした。この時、ヨハネは投獄されています。それは、この地を支配していたヘロデにも悔い改めを迫ったゆえでした。ヨハネは牢獄の中で、彼の弟子たちからイエスの話を聞きました。ところが、そのイエスの言動は、ヨハネの考えていたこととは違っていました。そこでヨハネは「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」と質問しました。
3. すでに来ている救い
その質問にイエスは、自身のしたこととイザヤ書のみことばに基づいて返答しました。それはすでに救いが訪れた後の光景です。イエスの返答は、すでに救いの時は始まっているというものでした。しかし、弟子たちやヨハネはそうは思えていません。そこにずれが生じています。私たちも同様のずれを持っています。自分の期待や願いの方が強くなっているのです。それは、何に期待し、何に信頼しているのか、ということにも関係しています。しかし、イエスの答えはみことばにありました。すでに神の救いの時は訪れており、そこに目を留めるようにと言われたのです。しかし、私たちは、まだ救いは来ていないと思っています。つまり、自分の思うようなことが起きていない、そう思ってしまうのです。罪と悪とに私たちは囚われているように思っています。しかし、すでに「世の光」は来ています。私たちは、何よりも先に、この光を受け取り、歩み始めましょう。そこに、神の国は訪れるのです。
コメント