2025年4月27日礼拝説教
- mbchurch
- 5月3日
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2025年4月27日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書13章10節~18節「復活の主を信じるということ」
1. なぜイエスはたとえで語られたのか
弟子たちはイエスに近づいて、「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と尋ねました。これに対しイエスは、「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません」と答えられます。イエスはたとえを用いることで、神を求める心があるか、ないかを問われました。ここにあるのは、「距離感」です。岸辺に立って話を聞いた群衆と、さらに近づいて意味を知ろうとした弟子たち。この距離が問われています。
2. 「持っている人」とは誰か
「持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」というイエスのことばは厳しく響くかもしれません。しかし、ここでの「持っている」とは、物質的なものではなく、「神を求める心」のことです。「心の貧しい者」、自らの足りなさを知り、神の救いを必要としている者こそが、神の豊かさにあずかる者なのです。一方で、神を必要としない者は、たとえ聞いても悟らず、見ても気づかない者だと言われています。
3. 良い地を求めて
イエスはイザヤ書の預言を引用されました。悟ろうとしない群衆に、イエスはたとえで問われたのです。しかし、イエスに近づいた弟子たちには、「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」と語られました。私たちは、自分の力で「良い地」になることはできません。まず、「良い地とならせてください」と祈り求めるのです。今起きていることにも神は関与しておられると信じ、みことばに日々耳を傾け、祈り求め、心で理解し、従う中で、主が私たちを耕してくださるのです。
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