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2025年5月11日礼拝説教

  • mbchurch
  • 5月12日
  • 読了時間: 2分

2025年5月11日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書13章44節~52節「天の御国という宝」

 

1. 畑に隠された宝

「天の御国は畑に隠された宝のようなもの」とイエスは語られました。この宝とは「天の御国」であり、「福音」です。イエスはこの福音が、持っているすべてを投げ打ってでも手に入れたいほどの価値あるものだと教えます。続いて語られるのが、「良い真珠を探す商人」のたとえです。この商人は良い真珠を探しています。商人はついに、求めていた真珠を見つけ、すべてを売り払ってそれを手に入れます。同じように、神の国もまた、探し求める者に与えられる宝なのです。

 

2. あらゆる種類の魚を集める網

別のたとえが語られます。海に投げ込まれた網があらゆる種類の魚を集め、それが満ちると漁師たちは岸に引き上げ、良い魚と悪い魚を選り分けます。このたとえは、「世の終わり」と「さばき」を描いています。当時のユダヤ人にとって、世の終わりとは「神の正義」が地上に回復される時、悪が取り除かれ、神の秩序が実現する時と考えられていました。この「さばき」は、「正義の確立」と言い換えることができます。そして「すべての人が集められる」――そこには例外がありません。

 

3. 天の御国の弟子たち

最後にイエスは、「天の御国の弟子となった学者」について語ります。それは、「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人」とたとえられます。「新しい物」とは「福音」であり、新しい生き方のことです。「古い物」とは、律法であり、彼らの正しさと言えるでしょう。この主人は、新しい物と古い物の両方を取り出します。私たちもまた、日々の生活の中で、「古い物」と「新しい物」の間に立っています。この世の価値観と、福音とに挟まれているのです。しかし、私たちが本当に取り出すべき宝とは、キリストにある「新しい物」、すなわち、福音の視点です。私たちはこの「古い物」と「新しい物」とのせめぎ合いの中を生きているのです。しかしその中でこそ、主イエスの十字架にあらわされた神の愛という「宝」を見出すのです。日々の繰り返される生活の中で、私たちは気づかされます――福音という宝が、無償で与えられていることを。私たちもまた、この宝を見出し、それを携えて歩む者でありたいと願います。

 
 
 

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