2025年6月15日礼拝説教
- mbchurch
- 6月22日
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2025年6月15日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書14章34節~15章9節「神の求めておられるもの」
1. 2つの対照的な人々の姿
イエスの前での2つのグループが描かれます。ゲネサレの人々は、名もなき、弱さと痛みを抱える普通の人々でした。彼らは「衣の房にでも触れたい」と必死に願いました。その信仰の姿は、神の前に出る本質を示しています。一方で、パリサイ人と律法学者たちはエルサレムから派遣され、イエスの行動を非難します。彼らの関心は、神の御前でどうあるかではなく、人々が自分たちの定めた規則を守っているかどうかにありました。信仰の本質に立ち返ることなく、形だけの正しさに固執していたのです。
2. イエスの問いかけ
イエスはパリサイ人たちに対して、「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのか」と問います。彼らは「コルバン」という制度を利用して、親への責任から逃れながら、それを正当化していました。これは、神の御心から離れていました。イエスは彼らの礼拝が「口先だけ」であり、「心は神から遠い」ことを指摘します。神が求めておられるのは、「砕かれた霊」「打たれ、砕かれた心」なのです。
3. 神の前に出るために必要なもの
神の前に必要なのは、形式的な正しさではなく、ただ主に触れたいという砕かれた思いです。ただ神のもとに出る、その願いと祈りこそが求められているのです。私たちは本音と建て前の間で揺れ動きますが、神の前では常に本音だけが取り扱われます。私たちも、表面的には敬虔であっても、日常の中で神から離れていないでしょうか。私たちの心を、そのまま主の前に差し出しましょう。私たちも主の恵みと癒し、そして慰めと励ましを受けてまいりましょう。
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