2026年7月12日礼拝説教
- 7月12日
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2026年7月12日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書 26章57節~68節「苦しみを通られた方」
1.不正な権威の前に
前回、私たちは「剣をもとに収めなさい」という主イエスの言葉を聞きました。神の救いは、剣によって成し遂げられるのではありません。もちろん聖書は、この罪ある世界において、秩序を保つための権威や制度を否定しているわけではありません。教会は為政者のために祈り、社会の平安を願います。しかし、国家は神ではなく、国家への服従は絶対ではありません。神を恐れ、神に従うために、従えないものには従わない信仰の姿があります。そして今朝の箇所で、主イエスご自身が、不正な権威の前に立たされます。
2.みことばに立つ主
イエスは大祭司カヤパのところへ連れて行かれました。そこには律法学者たちや長老たちが待ち構えていました。最高法院は、イエスを死刑にするために偽証を得ようとします。しかし、不利な証言や偽りの言葉が重ねられても、イエスはご自分を守るために語ろうとはされませんでした。ただ、「神の子キリストなのか」と問われた時、ダニエル書7章を思い起こさせる言葉を語られます。人々の目には、イエスは裁かれ、辱められているように見えました。しかしイエスは、父なる神の約束と、滅びることのない神の国を見ておられたのです。
3.この方を見つめる
人々はイエスを「死に値する」とし、顔に唾をかけ、拳で殴り、平手で打って嘲りました。ここにあるのは、不正な裁き、侮辱、暴力、そして神の子キリストに対する嘲りです。けれども、このイエスの姿は、イザヤ書53章に描かれた苦難のしもべの姿と重なります。イエスは、偽りによって裁かれ、侮辱され、暴力を受け、なお父なる神にご自身を委ねて歩まれました。苦しみの中で何を見つめるのか。不安の中で、何により頼むのか。 その時、私たちは、苦しみを通られた方を見つめます。辱めをものともせず、十字架を忍び、今、神の御座の右に着いておられるこの方から、目を離さないでいたいのです。



キリスト教の教会は、イエスの教えを曲解しており、組織として拡大を目指すために、人々に受け入れられやすいような教義にパウロの主導のもとすり替えられた、つまり「神から離れることは罪である」という教義だ。わたしには、イエスの最後の「さぁ、行こう」は、神から離れて、自立した人間が神の後ろ盾無くしても生きていこうとする勇気と神からの自立(成人)のように見えるのだが?
ゲッセマネの祈りを境にいままでは普通に神の声が聞こえていつもそばにいると感じられた神を、イエスは本当の受難を境にパタリと神の声が聞こえなくなったように思える。それをどう解釈するか。神・キリストのシナリオ通りだとはいえ、突然一方的に音信不通になる絶望をイエスは予想したのか?でも、イエスは、別に神に”奇跡”や”この苦しみから救ってくれ”とお願いするつもりはなかったと思える、ただ一言”お前を見ている”と声を聞かせて欲しかった、というささやかな願いだったかと思えるが、それすらかなわなかった。いつも彼は、”神の御心のままに”と祈っていた、つまり自分のために祈るということは祈りの本来の形ではないという模範を示したといえないか、となると、現在の信徒がどのような祈りをしているか、その心の内は知りえないが、”自分が祈りが届きますように”と祈っているとしたら、それは祈りの在り方の道からそもそも外れているということにならないか?
だが、ゲッセマネの祈りを三度繰り返しても、神からかえって来たのは沈黙だった、そこで彼は天命を知り覚悟を決め「さぁ行こう」と、十字架の道へ進んだ。何も後ろ盾のないなかで、人間の勇気の矜持を見た思いもする。
でも、イエスは、別に神に”奇跡”や”この苦しみから救ってくれ”とお願いするつもりはなかったと思える、ただ一言”お前を見ている”と声を聞かせて欲しかった、というささやかな願いだったかと思えるが、それすらかなわなかった。
ゲッセマネの祈りを境にいままでは普通に神の声が聞こえていつもそばにいると感じられた神を、イエスは本当の受難を境にパタリと神の声が聞こえなくなったように思える。それをどう解釈するか。神・キリストのシナリオ通りだとはいえ、突然一方的に音信不通になる絶望をイエスは予想したのか?