2026年7月5日礼拝説教
- 7月5日
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2026年7月5日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書 26章47節~56節「剣を収める者」
1.友を裏切る口づけ
ゲツセマネの祈りの後、ユダが再びイエスのもとにやって来ます。しかし、ユダは一人で来たのではありません。剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒でした。暗いゲツセマネの園の中で、誰がイエスであるかを知らせるために、ユダは親愛の情を表す口づけを、裏切りの合図としました。イエスは、そのユダに対しても「友よ」と呼びかけられます。その時、勇んでいた弟子の一人が剣を抜きます。自分たちは決して逃げない、戦うのだという思いを示そうとしたのかもしれません。
2.剣をもとに収めなさい
イエスは弟子に、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われました。これは、とても重い言葉です。教会が、戦争や暴力に対してどう向き合うのかを考える時、このイエスの言葉は何度も聞き直されてきました。しかし、イエスが剣を取られなかったのは、力がなかったからではありません。それでもイエスは、その力を、ご自分を守り、苦しみを避けるためには用いられませんでした。神の力は、人間の暴力と同じ仕方で用いられるものではありません。力で相手をねじ伏せる道ではなく、十字架を通して罪と死を打ち破る道を、イエスは選ばれたのです。
3.剣ではなく十字架によって
イエスは、みことばが成就するために、剣を取らず、十字架へ向かわれます。その姿は、イザヤ書53章に描かれる苦難のしもべそのものです。剣を取り、敵を力で打ち倒す救い主ではありません。私たちの罪を負い、口を開かず、十字架へ向かって行かれる救い主なのです。救いの御業は、剣や武力によって成し遂げられるものではありません。むしろ、私たちが握りしめてしまう剣を手放させるためのものです。相手を傷つける言葉が剣になることがあります。自分の正しさを押し通すことが剣になることもあります。しかし、十字架の主に従う私たちは、剣を取る者ではなく、福音のことばと祈りと聖霊の力によって歩む者として召されているのです。



イエスは神による救い(救済/受難→奇跡)がないことを知っていた、だが、実際に公開リンチ・むち打ち・処刑を体験して、あまりの苦しさに叫んで息絶えたとされる。パウロによる創作物語はその後の話だが、ここまでは、人間イエスが我々同様に肉体をもった存在として、当然向き合わないといけない試練に立ち向かったということかな。