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2023年1月22日礼拝説教

2023年1月22日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

へブル人への手紙4章1節~11節 「神の安息」


1. 神への恐れ

神への恐れとは、神のことばを軽んじて扱わず、そのことを常に心に置き、そしてそこから思考し、行動するということです。ここでは出エジプトでの出来事が思い返されています。ここでいう不信仰とは何でしょうか。この信仰は私自身の力、信仰の強さということではありません。聖書の語る信仰とは、私の力や知恵ではなく、神によって与えられ、強められる、そのような一方的な恵みです。しかし、私たちはすぐにその逆の方へと向かってしまいます。出エジプトの場面で、イスラエルの民は聞いたみことばが益とならなかったとあります。なぜなら、神のことばが聞いた人たちに信仰によって結び付けられなかったからでした。この信仰こそ、私の力や知恵のことではなく、神の御前にへりくだる心のことです。そのような信仰を通して、神の確かさと、神がともにいてくださることを受け取らせていただくのです。


2. 神の安息

ここで、私たちは「安息」とは何かを考えなくてはなりません。まず書かれているのは、神の創造時における安息についてです。6日間で神はこの世界を創造し、そして7日目に神は休まれた、その出来事です。安息は、完成の時を指しており、また完全な平和、約束の時の成就を指しています。けれども、この時代、「安息」に関しては、まったく別の捉え方がなされていました。それは、すべての手の業を止めることが、神の救いを得るための条件である、という考え方です。私たちのゴールを神の救い、神の約束を得るための手段に変えてしまったのです。私たちは自分勝手、人間中心に物事を考えてしまう、そのようなところがあります。


3. 自分のわざを休む

神は新たな安息、完成の時を示されました。それが、イエス・キリストによって、与えられる真の安息、神の国の到来の予告なのです。私たちは完全に自由ではありません。この世界は様々な理不尽で満ちています。しかし、イエス・キリストは、私たちを真の安息、神の国の完成へと導かれるのです。この安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むと語られています。ここに、この手紙の語る信仰があります。自分のわざを休むことが、真の信仰なのです。すでに神の業は、主イエス・キリストによって、あの十字架上でなされています。このことを、私たちは受けいれ、そしてただ受け取り続けるのです。

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