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2026年8月2日礼拝説教

2026年8月2日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 27章11節~26節「わたしもそこにいた」 1.二人のイエス ここには、二人のイエスが登場します。一人は、力によって道を切り開こうとしたバラバ・イエス。もう一人は、剣を取らず、自らのいのちを差し出そうとしているナザレのイエスです。ピラトは、ナザレのイエスに罪を見いだせないまま、どちらを釈放するかを群衆に選ばせました。群衆が選んだのは、自分たちの願いを実現してくれそうなバラバでした。そして、黙って立つイエスに対しては、「十字架につけろ」と叫んだのです。 2.正義よりも秩序 ピラトは、「あの人がどんな悪いことをしたのか」と尋ねました。しかし群衆はその問いには答えず、ますます激しく叫び続けました。ピラトの妻は、イエスを「あの正しい人」と呼びましたが、その声は群衆の叫びの中でかき消されました。ピラトには正しい判決を下す責任がありましたが、彼が守ろうとしたのは、罪のない一人の人ではなく、ローマの秩序と自分の立場でした。正義よりも秩序が、一人のいのちよりも人々の都合が優先さ

2026年7月26日礼拝説教

2026年7月26日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 27章1節~10節「主の前に告白する」 1.罪を認めたユダ ユダは、イエスが死刑に定められたことを知って深く後悔し、銀貨三十枚を返そうとしました。そして、「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」と告白します。ユダは、自分が何をしてしまったのかを、はっきりと理解していました。しかし祭司長たちは、「われわれの知ったことか。自分で始末することだ」と、ユダを突き放しました。ユダは、自分の罪を自分で始末しなければならないと思い込み、絶望の中へと向かっていきました。 2.罪に向き合わなかった祭司たち 本来、神殿は罪を犯した者が神の赦しを求める場所であり、祭司はその人を神のもとへ導く者でした。しかし祭司長たちは、罪を告白するユダに赦しの道を示そうとはしませんでした。その一方で、銀貨が「血の代価」であることにはこだわりながら、自分たちがその銀貨を用いてイエスを引き渡させた罪には向き合おうとしませんでした。ユダの悲劇を通して、本来の役割を失っていた神殿と祭司たちの姿が明らかに

2026年7月19日礼拝説教

2026年7月19日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章69節~75節「ペテロの失敗」 1.失敗を隠されなかったペテロ ペテロは、イエスのことを三度「知らない」と言ってしまいました。これほど自分の失敗が広く知られた人も、なかなかいないでしょう。しかし、この場面が聖書に残されていることで、私たちが自分の失敗を認めることへのハードルは、どれほど下げられたことでしょうか。福音書には、恐れにとらわれ、水に沈みかけたペテロ、自分の思い描く救い主の姿をイエスに押しつけようとしたペテロ、「私は決してつまずきません」と言い張ったペテロの姿が記されています。ペテロの恐れも弱さも、聖書は隠していません。それでも主イエスは、彼を見放さず、取り扱い続けられました。 2.主を知らないと言ったペテロ ペテロは、大祭司の家の中庭までついて行きました。しかし、「あなたもイエスと一緒にいましたね」と言われると、「何を言っているのか、私には分からない」と否定しました。二度目には誓って「そんな人は知らない」と言い、三度目には、のろわれてもよいとま

2026年7月12日礼拝説教

2026年7月12日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章57節~68節「苦しみを通られた方」 1.不正な権威の前に 前回、私たちは「剣をもとに収めなさい」という主イエスの言葉を聞きました。神の救いは、剣によって成し遂げられるのではありません。もちろん聖書は、この罪ある世界において、秩序を保つための権威や制度を否定しているわけではありません。教会は為政者のために祈り、社会の平安を願います。しかし、国家は神ではなく、国家への服従は絶対ではありません。神を恐れ、神に従うために、従えないものには従わない信仰の姿があります。そして今朝の箇所で、主イエスご自身が、不正な権威の前に立たされます。 2.みことばに立つ主 イエスは大祭司カヤパのところへ連れて行かれました。そこには律法学者たちや長老たちが待ち構えていました。最高法院は、イエスを死刑にするために偽証を得ようとします。しかし、不利な証言や偽りの言葉が重ねられても、イエスはご自分を守るために語ろうとはされませんでした。ただ、「神の子キリストなのか」と問われた時、ダニエ

2026年7月5日礼拝説教

2026年7月5日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章47節~56節「剣を収める者」 1.友を裏切る口づけ ゲツセマネの祈りの後、ユダが再びイエスのもとにやって来ます。しかし、ユダは一人で来たのではありません。剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒でした。暗いゲツセマネの園の中で、誰がイエスであるかを知らせるために、ユダは親愛の情を表す口づけを、裏切りの合図としました。イエスは、そのユダに対しても「友よ」と呼びかけられます。その時、勇んでいた弟子の一人が剣を抜きます。自分たちは決して逃げない、戦うのだという思いを示そうとしたのかもしれません。 2.剣をもとに収めなさい イエスは弟子に、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われました。これは、とても重い言葉です。教会が、戦争や暴力に対してどう向き合うのかを考える時、このイエスの言葉は何度も聞き直されてきました。しかし、イエスが剣を取られなかったのは、力がなかったからではありません。それでもイエスは、その力を、ご自分を守り、苦しみを避けるためには用

2026年6月28日礼拝説教

2026年6月28日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章36節~46節「イエスとともに」 1. 悲しむ主とともに イエスは弟子たちとともにゲツセマネへ行かれました。そこは「油搾り場」を意味すると言われる場所です。そこでイエスは、十字架を前にして「悲しみのあまり死ぬほどです」と語られました。イエスは、平然と十字架へ向かわれたのではありません。深い悲しみともだえの中で、十字架への道を歩まれました。だからこそ、主イエスは私たちの弱さに同情してくださる方です。私たちが苦しみや悲しみに心揺さぶられる時も、主はその痛みを知り、私たちの近くにいてくださいます。 2. 祈る主とともに イエスは少し進んで行き、ひれ伏して祈られました。「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。この杯とは、十字架の苦しみと死を指しています。イエスはその苦しみを隠さず、父なる神の前に差し出されました。しかし同時に、「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに」と祈られました。弟子たちは眠ってしまいましたが、イエスは彼らに「

2026年6月21日礼拝説教

2026年6月21日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章26節~35節「主の食卓」 1. 罪を赦す契約 過越の食卓で、イエスはパンを取り、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われました。また杯を取り、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」と言われました。かつて神は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出し、契約の民とされました。今、イエスはご自分のからだと血によって、人を罪と死の支配から解放し、神の民として新しく歩むための契約を立てようとしておられます。聖餐は、十字架による罪の赦しを覚える食卓であると同時に、やがて主とともに神の国の祝宴にあずかる日を待ち望む食卓です。 2. 失敗を知る主 食事を終え、オリーブ山へ向かわれたイエスは、弟子たちに「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と告げられました。ペテロは「たとえ皆がつまずいても、私は決してつまずきません」と答えましたが、イエスは、彼が三度ご自分を知らないと言うことを予告されます。弟子たちは本気でイエ

2026年6月14日礼拝説教

2026年6月14日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章14節~25節「暗闇の中で」 1. 主を引き渡す者 ユダは、十二弟子の一人であり、イエスとともに歩み、みことばを聞き、みわざを見てきた人でした。しかしそのユダが、祭司長たちのところへ行き、銀貨三十枚でイエスを引き渡す約束をします。前の場面では、一人の女性が、高価な香油を惜しみなくイエスに注ぎました。その一方で、ユダはイエスを引き渡そうとします。イエスに自分の大切なものを差し出す人と、イエスを値踏みして引き渡す人。この深い対比の中に、罪と悪の暗闇が見えてきます。 2. 食卓で告げる主 過越の食卓で、イエスは弟子たちとともに食卓に着かれました。それは、神がイスラエルをエジプトから救い出されたことを思い起こす、特別な食卓でした。しかしその最も親しい交わりの中で、イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と告げられます。さらに「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」と言われました。裏切る者は、遠くの敵ではなく、同じ食卓に着く者でした。イエス

2026年6月7日礼拝説教

2026年6月7日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章1節~13節「イエスの前にささげるもの」 1. 十字架へ向かう主 主イエスは、これまでのことばをすべて語り終えると、弟子たちに「二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と告げられました。過越の祭りは、イスラエルの民がエジプトから救い出された出来事を記念する祭りです。救いと解放を思い起こし、神が再び救いを行ってくださることへの期待を呼び起こす時でもありました。その過越の時に、イエスは十字架へ向かわれます。人々の思惑を超えて、神の救いの御業は進んでいきます。イエスは、私たちの背きと咎を負い、ほふられる小羊として、十字架へと向かわれるのです。 2. 香油を受け止める主 緊迫感が高まる中で、一人の女性がイエスのもとに来ます。彼女は非常に高価な香油を持って来て、食卓に着いておられたイエスの頭に注ぎました。弟子たちはそれを見て、「何のために、こんな無駄なことをするのか」と憤慨します。確かに、その香油を売れば、貧しい人たちに施

2026年5月31日礼拝説教

2026年5月31日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 25章31節~46節「最も小さい者たちの一人に」 1. 王の帰りを待つ者の歩み 主イエスが十字架に向かわれる前に語られたメッセージはクライマックスを迎えます。王なる人の子が栄光を帯びて来られる時、羊とやぎが分けられるように人々が分けられます。確かに、この箇所は「さばき」を語っています。しかし、それはただ天国と地獄を単純に分ける話ではありません。この言葉は、神殿が崩れ去るという予告を聞いた弟子たちに語られました。神の国を待ち望む者たちはどのように歩むのか。そのことを、主は弟子たちに教えておられるのです。 2. 最も小さい者への眼差し 王が見ておられるのは、律法をどれだけ守ったか、敵に勝利したか、帝国の支配を覆したかではありませんでした。王は、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と語られます。ここで言われる「最も小さい者たち」とは、イエスに従う小さな者たち、また神の民の中で見過ごされていた人々を指

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