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2026年3月15日礼拝説教

2026年3月15日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書23章5節~14節「あなたの立ち位置」   1. 人に見せる信仰 イエスは、パリサイ人たちの行いについて厳しい言葉を語られました。しかし、ここで非難されているのは特定の人々だけではありません。そこには、私たち自身の弱さと罪の姿が映し出されています。彼らは律法を覚えるための小箱や衣の房を誇りのしるしにし、人々から「先生」と呼ばれることを喜んでいました。本来、神を覚えるためのものが、いつの間にか人に見せる信仰へと変わってしまったのです。イエスは、そのような信仰のあり方を厳しく問いかけられました。   2. 神の前での本当の立ち位置 イエスは、「あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟である」と語られました。地上で絶対的な権威を持つ人間はいません。ただ神とキリストだけが真の権威です。だからこそ、人の上に立つ者は仕える者でなければなりません。神の国では、人を支配することではなく、互いに仕え合うことが大切にされます。自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ

2026年3月8日礼拝説教

2026年3月8日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書22章41節~23章5節「信仰と行い」   1. メシア理解と聖書の読み方 イエスはパリサイ人たちに「キリストはだれの子か」と問われ、彼らは「ダビデの子」と答えました。イエスは詩篇110 篇を示し、ダビデ自身がメシアを「主」と呼んでいることを指摘されます。救い主は単に王家の子孫なのではなく、ダビデも主と仰ぐ方です。問題は聖書の読み方でした。彼らはみことばを自分たちの願いに合わせ、イスラエル王国の樹立という枠に閉じ込めていました。しかし神のご計画は、すべての国々を祝福する広がりを持っています。福音を自分に都合のよい知らせとしてではなく、神の大きな救いの中で聞くことが重要なのです。   2. 言行不一致の信仰 イエスは続いて群衆と弟子たちに語られます。律法学者とパリサイ人は律法を教える立場にあり、その教え自体は尊重されるべきものでした。しかし彼らは言うだけで実行せず、人々に重荷を負わせながら助けようとせず、行いも人に見せるためでした。そこに欠けていたのは神のみこころです。みこ

2026年3月1日礼拝説教

2026年3月1日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書22章34節~40節「最も大切な戒め」   1. 律法の専門家の問い サドカイ人に続き、律法の専門家がイエスを試みて尋ねました。「律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」それは純粋な問いというより、イエスの立場を測ろうとする問いでした。彼にとって中心にあったのは、神の教えを最上位に置き、それを正しく守り行うことでした。彼の関心は、「神のみこころをどう汲み取るか」というより、「どれを守れば正しいと言えるか」ということにあります。彼はイエスをその枠の中に収めようとしたのです。   2. 律法の全体 「神を愛しなさい」「隣人を自分自身のように愛しなさい」この二つに律法と預言者の全体がかかっているとイエスは答えました。神を愛することは、安息日を守ることや礼拝をささげることに表れます。しかし、それが形式にとどまるなら、本質を失います。さらにイエスは、隣人を愛することを同じように重要だとされました。それは「悪いことをしない」という消極的な姿勢ではなく、神の思いを汲み取り、具体的に愛する

2026年2月22日礼拝説教

2026年2月22日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書22章23節~33節「生きている者の神」   1. 思い違い サドカイ人たちがイエスに問いを投げかけました。しかしそれは神のみこころを求める問いではなく、試すための問いでした。彼らはすでに結論を持ち、自分たちの正しさを確認しようとしていたのです。当時、「復活」は大きな関心事でした。パリサイ人は復活を信じ、サドカイ人は否定しました。その背後には、終わりの日に秩序が逆転することへの恐れがありました。彼らはレビラト婚の律法を持ち出し、「復活の時、その女は誰の妻になるのか」と問いかけます。イエスは言われます。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしている。」それは神を自分の枠の中で測っていることへの指摘でした。この言葉は私たちにも向けられています。   2. 復活は新しい創造 イエスは言われます。「復活の時には、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」復活は今の延長ではなく、神が新しく創造されるいのちです。さらにイエスは出エジプト記を引用し、「

2026年2月15日礼拝説教

2026年2月15日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書22章15節~22節「あなたは誰のものか」   1. 巧妙な罠 パリサイ人たちは「どのようにして、イエスをことばの罠にかけようか」と相談しました。そこには神のみこころを求める姿勢ではなく、イエスを失脚させようとする悪意がありました。ヘロデ党の者たちと共に、「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているか」と問いかけます。彼らは神が王であると信じつつも、現実にはローマ支配の下で折り合いをつけて生きていました。おそらく彼らは、イエスが「ローマへの税金は律法にかなっている」と答えるとは、全く期待していませんでした。   2. 「だれの肖像か」という問い イエスは彼らの悪意を見抜き、「税として納めるお金を見せなさい」と言われました。そしてそこに刻まれた肖像と銘について問われました。貨幣には皇帝の像と「神の子」「大祭司」という称号が刻まれていました。イエスは、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と語られます。問題は税金そのものではなく、「だれのかたちが刻まれ

2026年2月8日礼拝説教

2026年2月8日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書22章1節~14節「招かれ、そして選び取る」   1. イエスのイメージ 私たちはそれぞれの願望をもって、イエスや神の姿を思い描きます。日本人の神観においては、とくに「優しい」「受け止めてくれる」というイメージが先行しがちです。しかし、イエスをそのような一面だけで理解しようとすると、イエスが語られた厳しさや真剣さを見落としてしまうかもしれません。聖書は、私たちの思い込みをなぞるためにあるのではなく、新たな光をもって私たちを照らすものです。このたとえは、私たちの持つイエス像とは別の方向から語っています。   2. すべての人への招きとその応答 イエスは、神の国を「王が息子のために催した婚礼の披露宴」にたとえられました。王は最初に招いた人々から拒絶され、使者は侮辱され、殺されてしまいます。その後、王は枠を広げ、良い人でも悪い人でも、出会った人を皆招きます。神の招きは、すべての人に開かれています。しかし、婚礼の礼服を着ないまま来た人が追い出されたように、その招きは、私たちの在り

2026年2月1日礼拝説教

2026年2月1日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書21章33節~46節「もう一つのたとえ」   1. ぶどう園の主人と農夫たち イエスは、もう一つのたとえを語られました。主人は、垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建てた立派なぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して旅に出ます。収穫の時になると、主人はしもべを遣わしますが、農夫たちはしもべを打ち、殺してしまいました。さらに遣わされたしもべたちも同じ目に遭います。最後に主人は、自分の息子なら敬ってくれるだろうと考え、息子を遣わしました。しかし農夫たちは、跡取りである息子を殺し、相続財産を奪おうとしました。このたとえは、神がイスラエルに託された恵みと責任、そしてそれに背いてきた人の姿を描いています。   2. 捨てられた石と神の国 たとえを聞いた祭司長や長老たちは、農夫たちは滅ぼされ、ぶどう園は別の者に任されると答えました。するとイエスは、詩篇118 篇の「捨てられた石が要の石となった」というみことばを引用しました。この石は、人々に拒まれたイエスご自身を指しています。さら

2026年1月25日礼拝説教

2026年1月25日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書21章23節~32節「思い直し、出かけて行くということ」   1. 祭司長と長老の問い イエスが宮で教えておられると、祭司長と民の長老たちが来て、「何の権威によって、これらのことをしているのですか」と問いかけました。宮きよめと教えは、人々に大きな衝撃を与えていました。彼らは神殿と民を守るために立てられた公的な指導者であり、政治的にも宗教的にも「権威側」にいる人々でした。だからこそ「誰の許しで、誰の後ろ盾で」と確認しようとしたのです。しかし聖書が示すのは、人間が神を論じて決めるのではなく、神がご自身を啓示されるということです。その中心にイエス・キリストがおられます。私たちはまず、聖書とイエスのことばに聞く者として立てられます。   2. イエスの問い イエスは問いに直接答えず、「ヨハネのバプテスマはどこから来たのですか。天からですか、それとも人からですか」と逆に問われました。彼らは群衆が怖いか、自分たちの立場がどうなるかを計算し始めます。そして結局「分かりません」と答えま

2026年1月18日礼拝説教

2026年1月18日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書21章10節~22節「山を動かす信仰」 1. 「この人はだれなのか」という問い イエスがエルサレムに入られると、都の人々は「この人はだれなのか」と問いかけました。群衆はイエスを「ガリラヤのナザレから出た預言者」と答えます。「ダビデの子」と迎えながらも、あえて「預言者」と呼ぶその言葉には、期待と同時に慎重さがありました。都にはすでに緊張感が漂っていました。この問いは、当時の人々だけでなく、今を生きる私たちにも向けられています。私たちはイエスをだれとして受け止めているのでしょうか。   2. 宮きよめと子どもたちの賛美 イエスはエルサレムに着くとすぐに神殿に入り、売買をしていた者たちを追い出されました。これは神殿を本来の姿である「祈りの家」として回復するための行為でした。異邦人が祈るための場所が商売の場となっていたことは、神の願いとは大きくかけ離れていました。宮が正されると、目の見えない人や足の不自由な人が癒やされ、子どもたちの賛美が響きます。しかし祭司長や律法学者たちはそ

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