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2026年6月21日礼拝説教

2026年6月21日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章26節~35節「主の食卓」 1. 罪を赦す契約 過越の食卓で、イエスはパンを取り、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われました。また杯を取り、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」と言われました。かつて神は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出し、契約の民とされました。今、イエスはご自分のからだと血によって、人を罪と死の支配から解放し、神の民として新しく歩むための契約を立てようとしておられます。聖餐は、十字架による罪の赦しを覚える食卓であると同時に、やがて主とともに神の国の祝宴にあずかる日を待ち望む食卓です。 2. 失敗を知る主 食事を終え、オリーブ山へ向かわれたイエスは、弟子たちに「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と告げられました。ペテロは「たとえ皆がつまずいても、私は決してつまずきません」と答えましたが、イエスは、彼が三度ご自分を知らないと言うことを予告されます。弟子たちは本気でイエ

2026年6月14日礼拝説教

2026年6月14日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章14節~25節「暗闇の中で」 1. 主を引き渡す者 ユダは、十二弟子の一人であり、イエスとともに歩み、みことばを聞き、みわざを見てきた人でした。しかしそのユダが、祭司長たちのところへ行き、銀貨三十枚でイエスを引き渡す約束をします。前の場面では、一人の女性が、高価な香油を惜しみなくイエスに注ぎました。その一方で、ユダはイエスを引き渡そうとします。イエスに自分の大切なものを差し出す人と、イエスを値踏みして引き渡す人。この深い対比の中に、罪と悪の暗闇が見えてきます。 2. 食卓で告げる主 過越の食卓で、イエスは弟子たちとともに食卓に着かれました。それは、神がイスラエルをエジプトから救い出されたことを思い起こす、特別な食卓でした。しかしその最も親しい交わりの中で、イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と告げられます。さらに「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」と言われました。裏切る者は、遠くの敵ではなく、同じ食卓に着く者でした。イエス

2026年6月7日礼拝説教

2026年6月7日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章1節~13節「イエスの前にささげるもの」 1. 十字架へ向かう主 主イエスは、これまでのことばをすべて語り終えると、弟子たちに「二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と告げられました。過越の祭りは、イスラエルの民がエジプトから救い出された出来事を記念する祭りです。救いと解放を思い起こし、神が再び救いを行ってくださることへの期待を呼び起こす時でもありました。その過越の時に、イエスは十字架へ向かわれます。人々の思惑を超えて、神の救いの御業は進んでいきます。イエスは、私たちの背きと咎を負い、ほふられる小羊として、十字架へと向かわれるのです。 2. 香油を受け止める主 緊迫感が高まる中で、一人の女性がイエスのもとに来ます。彼女は非常に高価な香油を持って来て、食卓に着いておられたイエスの頭に注ぎました。弟子たちはそれを見て、「何のために、こんな無駄なことをするのか」と憤慨します。確かに、その香油を売れば、貧しい人たちに施

2026年5月31日礼拝説教

2026年5月31日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 25章31節~46節「最も小さい者たちの一人に」 1. 王の帰りを待つ者の歩み 主イエスが十字架に向かわれる前に語られたメッセージはクライマックスを迎えます。王なる人の子が栄光を帯びて来られる時、羊とやぎが分けられるように人々が分けられます。確かに、この箇所は「さばき」を語っています。しかし、それはただ天国と地獄を単純に分ける話ではありません。この言葉は、神殿が崩れ去るという予告を聞いた弟子たちに語られました。神の国を待ち望む者たちはどのように歩むのか。そのことを、主は弟子たちに教えておられるのです。 2. 最も小さい者への眼差し 王が見ておられるのは、律法をどれだけ守ったか、敵に勝利したか、帝国の支配を覆したかではありませんでした。王は、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と語られます。ここで言われる「最も小さい者たち」とは、イエスに従う小さな者たち、また神の民の中で見過ごされていた人々を指

2026年5月24日礼拝説教

2026年5月24日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 25章14節~30節「主人のことを知るしもべ」 1. 財産を預ける主人 イエスは、旅に出る主人がしもべたちに財産を預けるたとえを語られました。五タラント、二タラント、一タラントと、預けられた量には違いがありました。五タラントと二タラントを預かったしもべたちは、それを用いて増やしました。しかし、一タラントを預かったしもべは、主人の金を地中に隠してしまいます。このたとえで問われているのは、単にタラントをどう増やしたかではありません。主人をどのような方として知っているのか、ということです。主人は、しもべたちを信頼して、自分の大切な財産を委ねた方でした。 2. 主人を誤解したしもべ 一タラントのしもべは、主人を「厳しい方」と見ていました。蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めるような、恐ろしい主人だと考えていたのです。その主人理解が、彼の行動を形づくりました。彼は怖くなり、預かったものを地に埋めました。しかし、五タラントと二タラントのしもべた

2026年5月17日礼拝説教

2026年5月17日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 25章1節~13節「賢い娘たち」 1. 花婿を迎える備え 「賢く生きたい」と願わない人は少ないでしょう。しかし、聖書が語る賢さは、単に頭がよいとか、要領がよいということではありません。イエスは、花婿を迎えに出る十人の娘のたとえを語られました。五人は愚かで、五人は賢かった。両方とも、ともしびを持ち、花婿を待っていました。しかし、花婿が遅れたとき、予備の油を持っていたかどうかの違いが明らかになります。主は必ず来られる。しかし、その時は分かりません。だからこそ、主を待つ者として、備えて生きることが問われているのです。 2. 主を待つ賢さ 現代の私たちは、賢さを効率の良さや要領の良さとして考えやすいかもしれません。しかし、イエスが語っておられる賢さは、それとは違います。このたとえで問われているのは、油が何を意味するかではなく、花婿の到来に備えていたかどうかです。愚かな娘たちも、ともしびは持っていました。外側には、待っている姿がありました。しかし、主が自分たちの思う時に

2026年5月10日礼拝説教

2026年5月10日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 24章44節~51節「用心して生きる」 1. 王の帰還を見据えて生きる 「用心して生きる」と聞くと、少し窮屈そうに感じるかもしれません。私たちは日々、いろいろなことに気を配りながら生きています。しかし、主イエスが語っておられる「用心」は、ただ警戒し続けることではありません。「人の子は思いがけない時に来る」と語られるとき、そこにあるのは、真の王が帰って来られるというイメージです。主イエスは、来たるべき神の国、真の王の帰還に焦点を定めて生きるようにと教えておられます。 2. 任された務めに忠実に生きる イエスは、主人から責任を任され、食事時にしもべたちに食事を与えるしもべのたとえを語られました。そのしもべは、特別に目立つことをしているわけではありません。しかし、日々の務めを、主人の思いに従って忠実に果たしています。創世記のヨセフも、望んだ場所ではないところに置かれながら、任された務めに忠実に生きた人でした。一方、悪いしもべは「主人の帰りは遅くなる」と考え、自分勝手

2026年5月3日礼拝説教

2026年5月3日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 24章31節~44節「いちじくの木のように」 1. 弟子たちの切迫感 弟子たちは、今すぐイエスにメシアとして立ち上がっていただき、ローマ帝国の支配を終わらせて欲しいと願う、強い切迫感を抱いていました。それは、私たちが「今すぐこの状況を変えてください」「今すぐ祈りを聞いてください」と願う姿にも重なります。しかしイエスは、その切迫感をあおるのではなく、終末とは自分たちの願いがかなう時ではなく、神が選んだ者たちを集め、礼拝する民として完成させる時であることを示されます。いちじくの木を見れば夏の近さが分かるように、苦難の中でも人の子の近さを知ることはできる。しかし、その日その時は父なる神だけが知っておられるのです。 2. 神の国の到来 イエスは、「一人は取られ、一人は残される」ということばを通して、終わりの日には神の前で分けが起こることを語られました。それは、聖書が語る主の裁きの厳しい現実です。しかし同時に、それは神の国の完成でもあります。罪と悪が裁かれ、神の完全な統治

2026年4月26日礼拝説教

2026年4月26日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 24章15節~30節「危機の時代に」 1. 危機の中で問われること 弟子たちは、イエスが「宮は崩される」と語られたことに大きな危機感を抱きました。彼らはダニエル書を思い起こしながら、その危機がいつ起こるのか、そしてどう乗り越えればよいのかを知りたかったのです。ダニエル書は、帝国が強大に見え、神の民が圧迫される現実を語りつつも、最後には神の支配が明らかになることを告げています。弟子たちは、その危機を力あるメシアとともに戦って克服することを期待していました。しかしイエスはそれとはまったく違う道を示されました。 2. 逃げよ、祈れ、惑わされるな イエスは「山へ逃げなさい」「祈りなさい」と語られました。戦え、立ち向かえ、とは言われませんでした。なぜなら、ここで問われているのは、特定の国との戦いではなく、罪と悪に対する戦いだからです。そしてその勝利は、人によるのではなく、神によるのです。またイエスは、大きな苦難の時に、人々が「ここにキリストがいる」「そこにいる」と言って

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