top of page
  • Facebook

​礼拝説教はFacebookで視聴できます。

2026年2月1日礼拝説教

2026年2月1日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書21章33節~46節「もう一つのたとえ」   1. ぶどう園の主人と農夫たち イエスは、もう一つのたとえを語られました。主人は、垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建てた立派なぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して旅に出ます。収穫の時になると、主人はしもべを遣わしますが、農夫たちはしもべを打ち、殺してしまいました。さらに遣わされたしもべたちも同じ目に遭います。最後に主人は、自分の息子なら敬ってくれるだろうと考え、息子を遣わしました。しかし農夫たちは、跡取りである息子を殺し、相続財産を奪おうとしました。このたとえは、神がイスラエルに託された恵みと責任、そしてそれに背いてきた人の姿を描いています。   2. 捨てられた石と神の国 たとえを聞いた祭司長や長老たちは、農夫たちは滅ぼされ、ぶどう園は別の者に任されると答えました。するとイエスは、詩篇118 篇の「捨てられた石が要の石となった」というみことばを引用しました。この石は、人々に拒まれたイエスご自身を指しています。さら

2026年1月25日礼拝説教

2026年1月25日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書21章23節~32節「思い直し、出かけて行くということ」   1. 祭司長と長老の問い イエスが宮で教えておられると、祭司長と民の長老たちが来て、「何の権威によって、これらのことをしているのですか」と問いかけました。宮きよめと教えは、人々に大きな衝撃を与えていました。彼らは神殿と民を守るために立てられた公的な指導者であり、政治的にも宗教的にも「権威側」にいる人々でした。だからこそ「誰の許しで、誰の後ろ盾で」と確認しようとしたのです。しかし聖書が示すのは、人間が神を論じて決めるのではなく、神がご自身を啓示されるということです。その中心にイエス・キリストがおられます。私たちはまず、聖書とイエスのことばに聞く者として立てられます。   2. イエスの問い イエスは問いに直接答えず、「ヨハネのバプテスマはどこから来たのですか。天からですか、それとも人からですか」と逆に問われました。彼らは群衆が怖いか、自分たちの立場がどうなるかを計算し始めます。そして結局「分かりません」と答えま

2026年1月18日礼拝説教

2026年1月18日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書21章10節~22節「山を動かす信仰」 1. 「この人はだれなのか」という問い イエスがエルサレムに入られると、都の人々は「この人はだれなのか」と問いかけました。群衆はイエスを「ガリラヤのナザレから出た預言者」と答えます。「ダビデの子」と迎えながらも、あえて「預言者」と呼ぶその言葉には、期待と同時に慎重さがありました。都にはすでに緊張感が漂っていました。この問いは、当時の人々だけでなく、今を生きる私たちにも向けられています。私たちはイエスをだれとして受け止めているのでしょうか。   2. 宮きよめと子どもたちの賛美 イエスはエルサレムに着くとすぐに神殿に入り、売買をしていた者たちを追い出されました。これは神殿を本来の姿である「祈りの家」として回復するための行為でした。異邦人が祈るための場所が商売の場となっていたことは、神の願いとは大きくかけ離れていました。宮が正されると、目の見えない人や足の不自由な人が癒やされ、子どもたちの賛美が響きます。しかし祭司長や律法学者たちはそ

2026年1月4日礼拝説教

2026年1月4日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 ローマ人への手紙8章34節「キリストの確かなとりなしの中で」   1. 今も生きて、とりなしておられるキリスト ローマ人への手紙8章34節は、キリスト・イエスが死んで終わった方ではなく、よみがえられ、今も神の右の座に着いて私たちのためにとりなしておられることを語ります。主イエスの救いは、過去に起きた出来事として閉じられたものではありません。十字架の死によって罪は贖われ、復活によって新しいいのちが示され、そして今も生きておられる主が、私たちの歩みを支え続けてくださっています。私たちは、この「今も生きておられるキリスト」の確かさの中で、日々を生きているのです。   2. だれが、私たちを罪ありとするのか パウロはこの章で、「だれが私たちに敵対できるのか」「だれが神に選ばれた者たちを訴えるのか」「だれが私たちを罪ありとするのか」と、問いを重ねて語ります。信仰をもって歩み始めても、現実の中で私たちは弱さや欠けを覚え、責めや不安に心揺さぶられることがあります。内なる声や、現実の出来事が、私たちを

2025年12月28日礼拝説教

2025年12月28日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書21章1節~9節「子ろばに乗った救い主」   1. エルサレム入城 イエスはエルサレムに入城されました。弟子たちの期待は最高潮に達しています。イエスが不安を口にしていても、それは戦いに向けた一時の緊張にすぎない、と弟子たちは受け取っていました。ベテパゲに着くと、イエスは二人の弟子に「子ろばを連れて来なさい」と命じます。この出来事は、ゼカリヤ書に記された預言の成就でした。弟子たちは、この行為を、イエスが救い主として公に名乗りをあげるしるしとして受け止めたに違いありません。   2. ホサナという叫び イエスが子ろばに乗ると、群衆は上着を道に敷き、枝を切って迎えました。人々は、ついに自分たちを救う王が来られたと思い、「ホサナ、ダビデの子に」と叫びました。「ホサナ」とは「どうか救ってください」という切実な祈りの言葉でしたが、やがて救い主を迎える賛美の言葉となっていきました。群衆の叫びには、期待と興奮、そして切実な願いが入り混じっていました。彼らは、イエスの力によって勝利がも

2025年12月21日礼拝説教

2025年12月21日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 ヨハネの福音書1章14節~18節「私たちの間に住まわれた方」   1. ことばは肉となった ヨハネの福音書は、クリスマスの出来事を「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた」という大胆な言葉で語ります。「ことば」とは、神の意志そのものであり、世界のはじめから神とともにあった存在、すなわちイエス・キリストを指しています。その方が「肉」となられたとは、私たちと同じ弱さと限界をもつ人間の現実を引き受けられたということです。神が一時的に人の姿を装ったのではなく、病や痛み、孤独や死を経験する私たちと同じ現実の中に生きてくださった。それが、クリスマスに起きた決定的な出来事でした。   2. 誕生にあらわれた神の栄光 ルカの福音書が伝えるイエスの誕生は、決して華やかなものではありませんでした。結婚前のマリアの妊娠、宿のない現実、飼い葉おけに寝かされる幼子。誰からも歓迎されない、みすぼらしく、悲惨とも言える始まりでした。しかしヨハネは、その姿に「父のみもとから来られたひとり子としての栄光を見た」

2025年12月14日礼拝説教

2025年12月14日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書20章29節~34節「目を開かれる主」   1. 二人の盲人 エリコを出て行かれるイエスの前に、道端に座っていた二人の盲人がいました。彼らはイエスが通られると聞くと、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫び続けます。群衆は彼らを黙らせようとしますが、彼らはますます大きな声で叫びました。彼らが「ダビデの子」という言葉をどこまで理解していたかは断定できません。しかし確かなのは、彼らがこの方に望みを置き、憐れみにすがって必死に叫んだということです。声を上げること、それが彼らに残された唯一の手段でした。   2. イエスの問い イエスは立ち止まり、彼らを呼び寄せて、「わたしに何をしてほしいのですか」と問われました。この問いは、単なる施しを求めるかどうかを確かめるものではありません。彼らの心を主ご自身へと向け、その真の願いを言葉にさせる問いでした。ヤコブとヨハネが「右と左の座」を願ったのとは対照的に、二人の盲人は「主よ、目を開けていただきたい」と答えます。それは

2025年12月7日礼拝説教

2025年12月7日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書20章17節~28節「私と同じように」 1. イエスの計画と弟子の不理解 イエスはエルサレムに上る途中、弟子に向かって、これから起こる出来事を明確に示されました。祭司長たちに引き渡され、十字架につけられ、しかし三日目によみがえるという救いの計画が、ついに実行に移されると語られました。しかし弟子たちは理解していませんでした。その時、ヤコブとヨハネの母が来て、「御国で右と左に座らせてください」と願います。イエスが死と罪の力に立ち向かわれようとしているのに、弟子たちは依然として地上的な力や栄光を求めていたのです。「あなたがたは何を求めているのか分かっていません」というイエスの言葉は、私たちにも向けられています。   2. 「誰が偉いのか」 この願いを聞いたほかの十人は腹を立てました。そこにあったのは「誰が一番偉いか」という思いです。イエスは「異邦人の支配者たちは権力をふるう」と語り、この世界の現実を示されました。私たちもまた、死、病、喪失、孤独、評価、将来への不安といった恐れ

2025年11月30日礼拝説教

2025年11月30日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書20章1節~16節「ぶどう園の主人のお考え」   1. 神と人との価値基準の違い イエスが語られたこのたとえ話には、神の国の価値観と私たち人間の考え方の違いが鮮明に表れています。私たちは、早く来た者が多く受け取り、長く働いた者が評価されるべきだと考えます。しかし主人は、最後に来た者にも最初に来た者と同じ一デナリを与えました。そこにあるのは、主人が「そうしたい」と望まれた心です。主人の言葉、「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」ここには、神の国が誰がどれだけ働いたかではなく、神の側の招きとまなざしによって動いていることが示されています。神は神であり、私たちは神ではない――そのことを、この物語は私たちに教えています。   2. 最後に招かれた人々 たとえの中で目を向けたいのは、「五時ごろ」雇われた人々です。彼らは怠けていたのではなく、「だれも雇ってくれないから」と言いました。人から価値を認められず、声をかけてもらえなかった人々。それでも主人は彼らを見つ

bottom of page