top of page
  • Facebook

​礼拝説教はFacebookで視聴できます。

2026年5月17日礼拝説教

2026年5月17日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 25章1節~13節「賢い娘たち」 1. 花婿を迎える備え 「賢く生きたい」と願わない人は少ないでしょう。しかし、聖書が語る賢さは、単に頭がよいとか、要領がよいということではありません。イエスは、花婿を迎えに出る十人の娘のたとえを語られました。五人は愚かで、五人は賢かった。両方とも、ともしびを持ち、花婿を待っていました。しかし、花婿が遅れたとき、予備の油を持っていたかどうかの違いが明らかになります。主は必ず来られる。しかし、その時は分かりません。だからこそ、主を待つ者として、備えて生きることが問われているのです。 2. 主を待つ賢さ 現代の私たちは、賢さを効率の良さや要領の良さとして考えやすいかもしれません。しかし、イエスが語っておられる賢さは、それとは違います。このたとえで問われているのは、油が何を意味するかではなく、花婿の到来に備えていたかどうかです。愚かな娘たちも、ともしびは持っていました。外側には、待っている姿がありました。しかし、主が自分たちの思う時に

2026年5月10日礼拝説教

2026年5月10日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 24章44節~51節「用心して生きる」 1. 王の帰還を見据えて生きる 「用心して生きる」と聞くと、少し窮屈そうに感じるかもしれません。私たちは日々、いろいろなことに気を配りながら生きています。しかし、主イエスが語っておられる「用心」は、ただ警戒し続けることではありません。「人の子は思いがけない時に来る」と語られるとき、そこにあるのは、真の王が帰って来られるというイメージです。主イエスは、来たるべき神の国、真の王の帰還に焦点を定めて生きるようにと教えておられます。 2. 任された務めに忠実に生きる イエスは、主人から責任を任され、食事時にしもべたちに食事を与えるしもべのたとえを語られました。そのしもべは、特別に目立つことをしているわけではありません。しかし、日々の務めを、主人の思いに従って忠実に果たしています。創世記のヨセフも、望んだ場所ではないところに置かれながら、任された務めに忠実に生きた人でした。一方、悪いしもべは「主人の帰りは遅くなる」と考え、自分勝手

2026年5月3日礼拝説教

2026年5月3日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 24章31節~44節「いちじくの木のように」 1. 弟子たちの切迫感 弟子たちは、今すぐイエスにメシアとして立ち上がっていただき、ローマ帝国の支配を終わらせて欲しいと願う、強い切迫感を抱いていました。それは、私たちが「今すぐこの状況を変えてください」「今すぐ祈りを聞いてください」と願う姿にも重なります。しかしイエスは、その切迫感をあおるのではなく、終末とは自分たちの願いがかなう時ではなく、神が選んだ者たちを集め、礼拝する民として完成させる時であることを示されます。いちじくの木を見れば夏の近さが分かるように、苦難の中でも人の子の近さを知ることはできる。しかし、その日その時は父なる神だけが知っておられるのです。 2. 神の国の到来 イエスは、「一人は取られ、一人は残される」ということばを通して、終わりの日には神の前で分けが起こることを語られました。それは、聖書が語る主の裁きの厳しい現実です。しかし同時に、それは神の国の完成でもあります。罪と悪が裁かれ、神の完全な統治

2026年4月26日礼拝説教

2026年4月26日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 24章15節~30節「危機の時代に」 1. 危機の中で問われること 弟子たちは、イエスが「宮は崩される」と語られたことに大きな危機感を抱きました。彼らはダニエル書を思い起こしながら、その危機がいつ起こるのか、そしてどう乗り越えればよいのかを知りたかったのです。ダニエル書は、帝国が強大に見え、神の民が圧迫される現実を語りつつも、最後には神の支配が明らかになることを告げています。弟子たちは、その危機を力あるメシアとともに戦って克服することを期待していました。しかしイエスはそれとはまったく違う道を示されました。 2. 逃げよ、祈れ、惑わされるな イエスは「山へ逃げなさい」「祈りなさい」と語られました。戦え、立ち向かえ、とは言われませんでした。なぜなら、ここで問われているのは、特定の国との戦いではなく、罪と悪に対する戦いだからです。そしてその勝利は、人によるのではなく、神によるのです。またイエスは、大きな苦難の時に、人々が「ここにキリストがいる」「そこにいる」と言って

2026年4月12日礼拝説教

2026年4月12日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 24章1節~14節「耐え忍び、待ち望む」 1. 終わりではなく、産みの苦しみの始まり 弟子たちにとって神殿は、信仰の支柱でした。しかしイエスは、その神殿が完全に崩れると語られます。弟子たちは大きく揺さぶられ、「いつ、そのようなことが起こるのですか」と問いました。それに対してイエスは、戦争や対立、飢饉や地震、偽りの救いを語る者たちの出現を挙げながら、「これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです」と言われました。聖書は、神の国の到来の前段階を、「産みの苦しみ」として語ります。被造物も私たちも、ともにうめきながら、神の完成を待ち望んでいるのです。 2. 惑わされず、うろたえず イエスは、こうした厳しい現実の中で、まず「人に惑わされないように気をつけなさい」「うろたえないようにしなさい」と語られました。私たちは、苦しみや不安の中で揺さぶられ、いつの間にか本質から逸れ、神から離れてしまうことがあります。また、キリストに従う歩みそのものが、反発や摩擦を生み、愛が冷えていく

2026年4月5日礼拝説教

2026年4月5日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 コリント人への手紙第二 1章4節~10節「希望と慰め」 1. 苦しみの中で与えられる慰め イースターは「勝利の日」です。しかしその勝利とは、苦しみがすべて消えるということではありません。私たちの現実には、なお悲しみも重荷もあります。それでもキリストの復活は、私たちに決して失われない希望を与えます。第二コリントの冒頭でパウロは、神を「すべての慰めの神」と呼びました。復活の主は、苦しみの現実のただ中で、私たちを慰めてくださる方なのです。 2. キリストの苦難とともにある希望 パウロ自身も、「生きる望みさえ失うほど」の圧迫を受けました。しかしその苦しみの中で、彼は自分に頼るのではなく、「死者をよみがえらせてくださる神」に頼る者とされていきました。パウロは、私たちの苦しみがキリストの苦難とともに数えられ、また慰めもキリストによってあふれると語ります。苦しみの中でこそ、そばにおられるキリストを知り、復活のいのちに希望を置く者とされるのです。 3. 慰めを受けた者として生きる...

2026年3月29日礼拝説教

2026年3月29日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書23章15節~39節「なお差し伸べられる招き」 1. 外側ではなく内側 イエスは律法学者たちとパリサイ人たちに「わざわいだ」と語られました。しかしそれは、ただの断罪ではなく、見失ってしまった者たちへの深い嘆きでもあります。彼らは外側を整え、正しく見せていましたが、主が見ておられたのはその内側でした。杯や皿の外側はきよめても、内側は強欲と放縦に満ちている。白く塗った墓のように、外側は美しく見えても、内側には汚れがある。ここで問われているのは、彼らだけの問題ではありません。私たちもまた、自分のこととしてこのみことばを聞かなければならないのです。 2. 私たちもその中にいる 彼らは預言者たちの墓を建てながら、「自分たちなら先祖のような罪は犯さなかった」と言いました。しかしイエスは、そのように言う彼らこそ、同じ罪の流れの中にいるのだと示されます。過去の罪を批判しながら、自分はその外側にいると思っている。けれども実際には、神が遣わされる者を退けるその頑なさは、今もなお人の

2026年3月22日礼拝説教

2026年3月22日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書23章13節~24節「私たちの上にあるもの」 1. 本質を見失った信仰 イエスは律法学者たちとパリサイ人に「わざわいだ」と語られました。しかしそれは、ただの怒りではなく、彼らへの深い嘆きのことばです。彼らは本来、人々を神へ導くはずの存在でした。ところが実際には、自分たちも御国に入らず、入ろうとする人々をも妨げていました。異邦人を受け入れること自体は良いことですが、その人々を神へ導くのではなく、自分たちと同じ在り方、自分たちの基準へと従わせていました。神に向かうはずの信仰が、人に向かうものへとすり替わってしまっていたのです。 2. 神よりも上に置かれるもの さらにイエスは、誓いに関する彼らの考え方を取り上げられました。神殿にかけて誓うなら拘束力はないが、神殿の黄金にかけて誓うなら守らねばならない。祭壇よりも供え物の方が重い、という考え方です。しかしイエスは、それは本質を見失った考えだと言われます。黄金は神殿があるから意味を持ち、供え物は祭壇があるから聖なるものとな

2026年3月15日礼拝説教

2026年3月15日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書23章5節~14節「あなたの立ち位置」 1. 人に見せる信仰 イエスは、パリサイ人たちの行いについて厳しい言葉を語られました。しかし、ここで非難されているのは特定の人々だけではありません。そこには、私たち自身の弱さと罪の姿が映し出されています。彼らは律法を覚えるための小箱や衣の房を誇りのしるしにし、人々から「先生」と呼ばれることを喜んでいました。本来、神を覚えるためのものが、いつの間にか人に見せる信仰へと変わってしまったのです。イエスは、そのような信仰のあり方を厳しく問いかけられました。 2. 神の前での本当の立ち位置 イエスは、「あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟である」と語られました。地上で絶対的な権威を持つ人間はいません。ただ神とキリストだけが真の権威です。だからこそ、人の上に立つ者は仕える者でなければなりません。神の国では、人を支配することではなく、互いに仕え合うことが大切にされます。自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ

bottom of page