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2026年4月26日礼拝説教

2026年4月26日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 24章15節~30節「危機の時代に」 1. 危機の中で問われること 弟子たちは、イエスが「宮は崩される」と語られたことに大きな危機感を抱きました。彼らはダニエル書を思い起こしながら、その危機がいつ起こるのか、そしてどう乗り越えればよいのかを知りたかったのです。ダニエル書は、帝国が強大に見え、神の民が圧迫される現実を語りつつも、最後には神の支配が明らかになることを告げています。弟子たちは、その危機を力あるメシアとともに戦って克服することを期待していました。しかしイエスはそれとはまったく違う道を示されました。 2. 逃げよ、祈れ、惑わされるな イエスは「山へ逃げなさい」「祈りなさい」と語られました。戦え、立ち向かえ、とは言われませんでした。なぜなら、ここで問われているのは、特定の国との戦いではなく、罪と悪に対する戦いだからです。そしてその勝利は、人によるのではなく、神によるのです。またイエスは、大きな苦難の時に、人々が「ここにキリストがいる」「そこにいる」と言って

2026年4月12日礼拝説教

2026年4月12日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 24章1節~14節「耐え忍び、待ち望む」 1. 終わりではなく、産みの苦しみの始まり 弟子たちにとって神殿は、信仰の支柱でした。しかしイエスは、その神殿が完全に崩れると語られます。弟子たちは大きく揺さぶられ、「いつ、そのようなことが起こるのですか」と問いました。それに対してイエスは、戦争や対立、飢饉や地震、偽りの救いを語る者たちの出現を挙げながら、「これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです」と言われました。聖書は、神の国の到来の前段階を、「産みの苦しみ」として語ります。被造物も私たちも、ともにうめきながら、神の完成を待ち望んでいるのです。 2. 惑わされず、うろたえず イエスは、こうした厳しい現実の中で、まず「人に惑わされないように気をつけなさい」「うろたえないようにしなさい」と語られました。私たちは、苦しみや不安の中で揺さぶられ、いつの間にか本質から逸れ、神から離れてしまうことがあります。また、キリストに従う歩みそのものが、反発や摩擦を生み、愛が冷えていく

2026年4月5日礼拝説教

2026年4月5日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 コリント人への手紙第二 1章4節~10節「希望と慰め」 1. 苦しみの中で与えられる慰め イースターは「勝利の日」です。しかしその勝利とは、苦しみがすべて消えるということではありません。私たちの現実には、なお悲しみも重荷もあります。それでもキリストの復活は、私たちに決して失われない希望を与えます。第二コリントの冒頭でパウロは、神を「すべての慰めの神」と呼びました。復活の主は、苦しみの現実のただ中で、私たちを慰めてくださる方なのです。 2. キリストの苦難とともにある希望 パウロ自身も、「生きる望みさえ失うほど」の圧迫を受けました。しかしその苦しみの中で、彼は自分に頼るのではなく、「死者をよみがえらせてくださる神」に頼る者とされていきました。パウロは、私たちの苦しみがキリストの苦難とともに数えられ、また慰めもキリストによってあふれると語ります。苦しみの中でこそ、そばにおられるキリストを知り、復活のいのちに希望を置く者とされるのです。 3. 慰めを受けた者として生きる...

2026年3月29日礼拝説教

2026年3月29日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書23章15節~39節「なお差し伸べられる招き」 1. 外側ではなく内側 イエスは律法学者たちとパリサイ人たちに「わざわいだ」と語られました。しかしそれは、ただの断罪ではなく、見失ってしまった者たちへの深い嘆きでもあります。彼らは外側を整え、正しく見せていましたが、主が見ておられたのはその内側でした。杯や皿の外側はきよめても、内側は強欲と放縦に満ちている。白く塗った墓のように、外側は美しく見えても、内側には汚れがある。ここで問われているのは、彼らだけの問題ではありません。私たちもまた、自分のこととしてこのみことばを聞かなければならないのです。 2. 私たちもその中にいる 彼らは預言者たちの墓を建てながら、「自分たちなら先祖のような罪は犯さなかった」と言いました。しかしイエスは、そのように言う彼らこそ、同じ罪の流れの中にいるのだと示されます。過去の罪を批判しながら、自分はその外側にいると思っている。けれども実際には、神が遣わされる者を退けるその頑なさは、今もなお人の

2026年3月22日礼拝説教

2026年3月22日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書23章13節~24節「私たちの上にあるもの」 1. 本質を見失った信仰 イエスは律法学者たちとパリサイ人に「わざわいだ」と語られました。しかしそれは、ただの怒りではなく、彼らへの深い嘆きのことばです。彼らは本来、人々を神へ導くはずの存在でした。ところが実際には、自分たちも御国に入らず、入ろうとする人々をも妨げていました。異邦人を受け入れること自体は良いことですが、その人々を神へ導くのではなく、自分たちと同じ在り方、自分たちの基準へと従わせていました。神に向かうはずの信仰が、人に向かうものへとすり替わってしまっていたのです。 2. 神よりも上に置かれるもの さらにイエスは、誓いに関する彼らの考え方を取り上げられました。神殿にかけて誓うなら拘束力はないが、神殿の黄金にかけて誓うなら守らねばならない。祭壇よりも供え物の方が重い、という考え方です。しかしイエスは、それは本質を見失った考えだと言われます。黄金は神殿があるから意味を持ち、供え物は祭壇があるから聖なるものとな

2026年3月15日礼拝説教

2026年3月15日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書23章5節~14節「あなたの立ち位置」 1. 人に見せる信仰 イエスは、パリサイ人たちの行いについて厳しい言葉を語られました。しかし、ここで非難されているのは特定の人々だけではありません。そこには、私たち自身の弱さと罪の姿が映し出されています。彼らは律法を覚えるための小箱や衣の房を誇りのしるしにし、人々から「先生」と呼ばれることを喜んでいました。本来、神を覚えるためのものが、いつの間にか人に見せる信仰へと変わってしまったのです。イエスは、そのような信仰のあり方を厳しく問いかけられました。 2. 神の前での本当の立ち位置 イエスは、「あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟である」と語られました。地上で絶対的な権威を持つ人間はいません。ただ神とキリストだけが真の権威です。だからこそ、人の上に立つ者は仕える者でなければなりません。神の国では、人を支配することではなく、互いに仕え合うことが大切にされます。自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ

2026年3月8日礼拝説教

2026年3月8日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書22章41節~23章5節「信仰と行い」 1. メシア理解と聖書の読み方 イエスはパリサイ人たちに「キリストはだれの子か」と問われ、彼らは「ダビデの子」と答えました。イエスは詩篇110 篇を示し、ダビデ自身がメシアを「主」と呼んでいることを指摘されます。救い主は単に王家の子孫なのではなく、ダビデも主と仰ぐ方です。問題は聖書の読み方でした。彼らはみことばを自分たちの願いに合わせ、イスラエル王国の樹立という枠に閉じ込めていました。しかし神のご計画は、すべての国々を祝福する広がりを持っています。福音を自分に都合のよい知らせとしてではなく、神の大きな救いの中で聞くことが重要なのです。 2. 言行不一致の信仰 イエスは続いて群衆と弟子たちに語られます。律法学者とパリサイ人は律法を教える立場にあり、その教え自体は尊重されるべきものでした。しかし彼らは言うだけで実行せず、人々に重荷を負わせながら助けようとせず、行いも人に見せるためでした。そこに欠けていたのは神のみこころです。みこ

2026年3月1日礼拝説教

2026年3月1日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書22章34節~40節「最も大切な戒め」 1. 律法の専門家の問い サドカイ人に続き、律法の専門家がイエスを試みて尋ねました。「律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」それは純粋な問いというより、イエスの立場を測ろうとする問いでした。彼にとって中心にあったのは、神の教えを最上位に置き、それを正しく守り行うことでした。彼の関心は、「神のみこころをどう汲み取るか」というより、「どれを守れば正しいと言えるか」ということにあります。彼はイエスをその枠の中に収めようとしたのです。 2. 律法の全体 「神を愛しなさい」「隣人を自分自身のように愛しなさい」この二つに律法と預言者の全体がかかっているとイエスは答えました。神を愛することは、安息日を守ることや礼拝をささげることに表れます。しかし、それが形式にとどまるなら、本質を失います。さらにイエスは、隣人を愛することを同じように重要だとされました。それは「悪いことをしない」という消極的な姿勢ではなく、神の思いを汲み取り、具体的に愛する

2026年2月22日礼拝説教

2026年2月22日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書22章23節~33節「生きている者の神」 1. 思い違い サドカイ人たちがイエスに問いを投げかけました。しかしそれは神のみこころを求める問いではなく、試すための問いでした。彼らはすでに結論を持ち、自分たちの正しさを確認しようとしていたのです。当時、「復活」は大きな関心事でした。パリサイ人は復活を信じ、サドカイ人は否定しました。その背後には、終わりの日に秩序が逆転することへの恐れがありました。彼らはレビラト婚の律法を持ち出し、「復活の時、その女は誰の妻になるのか」と問いかけます。イエスは言われます。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしている。」それは神を自分の枠の中で測っていることへの指摘でした。この言葉は私たちにも向けられています。 2. 復活は新しい創造 イエスは言われます。「復活の時には、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」復活は今の延長ではなく、神が新しく創造されるいのちです。さらにイエスは出エジプト記を引用し、「

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