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2026年9月20日礼拝説教

2026年9月20日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 27章46節~54節「幕は裂け、地は揺れ動いた」 1.イエスの叫び 十字架の上でイエスは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは詩篇22篇のことばであり、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びでした。イエスは、父なる神に見捨てられた者の場所に立ち、罪のさばきと、恐れ、苦しみ、孤独をその身に担われました。神を信じていても、答えが見えず、「神にさえ見捨てられたのではないか」と思う時があります。イエスは、そのような私たちの叫びを知り、私たちとともに、そして私たちのために叫んでくださったのです。 2.幕は裂け、墓は開かれた イエスが息を引き取られた時、すべてが終わったように見えました。しかし、その時、神殿の幕が上から下まで裂け、地が揺れ、岩が裂け、墓が開かれました。人が自分の力で神への道を切り開いたのではありません。神の側から、神へと近づく道が開かれたのです。そして、新しい時代の始まりが示されました。イエスの死は、

2026年9月13日礼拝説教

2026年9月13日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 27章39節~45節「闇の中のイエス」 1.最後の誘惑 十字架の上のイエスに、人々は「もしおまえが神の子なら、自分を救ってみろ」とののしりました。そのことばは、荒野で悪魔が語った「あなたが神の子なら」という誘惑を思い起こさせます。しかしイエスは、神の子としての力を自分を救うためには使われませんでした。父なる神に信頼し、自らのいのちをささげる道を最後まで歩まれたのです。「他人は救ったが、自分は救えない」と人々は嘲りました。しかしイエスは、自分を救わないことによって、私たちを救う道を選ばれました。 2.闇の中に入られたイエス 正午、本来なら一日の中で最も明るい時間に、闇が全地を覆いました。そこには、死と滅び、そして罪に対する神の裁きが表されています。私たちは明るい未来を願いながらも、神を神とせず、神に信頼しきることのできない罪の現実を抱えています。本来、私たちが置かれていたその闇の中に、イエスご自身が入ってくださいました。そして十字架の死を通り、私たちに新しいいの

2026年9月6日礼拝説教

2026年9月6日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 ローマ人への手紙 8章35節~37節「キリストの愛のゆえに」 1.何ものもキリストの愛から引き離せない パウロは、「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」と、自らが経験してきた厳しい現実を一つ一つ挙げながら、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」と問いかけます。その確信の根拠は、パウロ自身の信仰の強さにあったのではありません。私たちが必死になってキリストにしがみついているのではなく、主イエスの御手が私たちをとらえていてくださる。だから、どのような出来事も、私たちをキリストの愛から引き離すことはできないのです。 2.苦難の中でも神に祈る パウロはここで、詩篇44篇の「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています」ということばを引用します。詩人は、かつて神が与えてくださった救いを思い起こしながら、今はなぜこのような苦難の中にいるのか分からず、「起きてください。主よ」と神に訴えます。私たちも、神を信じていても、理由の分からない苦難を通ることがあり

2026年8月30日礼拝説教

2026年8月30日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 ローマ人への手紙 8章32節~34節「途切れることのないとりなし」 1.揺れ動く私たちを支える主 私たちは、信仰的なことばをよく用います。しかし、その反対の手には、目の前の現実があります。本当に大丈夫なのか。これから、どうなってしまうのか。不安があるから信仰がない、悲しんでいるから主に信頼していない。そう決めつける必要はありません。不安はある。しかし、主に信頼したい。悲しみがある。しかし、主の恵みを覚えて感謝したい。私たちは、その両方を抱えています。時には、告白することばさえ出てこないこともあるでしょう。しかし、その時にも、主イエスのとりなしは途切れません。揺れ動いている時にも、主は私たちを支えてくださるのです。 2.この信仰を次へと引き継ぐ 真砂教会は、半世紀にわたり、この地で福音を宣べ伝えてきました。教会は、引き継がれていく働きです。しかし、それは単に、組織や建物を引き継ぐものではありません。この地で教会をはじめられた主イエスが、今も私たちをとりなし、導き、なおその働きを進め

2026年8月9日礼拝説教

2026年8月9日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 27章27節~38節「神の物語」 1.この世界が語る物語 私たちは、これまで経験してきたことや、家庭、学校、社会の中で教えられてきたことを通して、知らず知らずのうちに一つの物語を生きています。その物語によって、何を幸せと考え、何を成功と呼び、何を恐れ、何に希望を置くのかが形づくられていきます。しかし人は、神のことばに聞こうとせず、神が与えてくださる物語を失ってしまいました。ローマの兵士たちも群衆も、力を持つ者が勝ち、敵を倒す者が救い主となるという、この世界の物語によってイエスを見ていたのです。 2.十字架につけられた真の王 兵士たちは、イエスに緋色のマントを着せ、茨の冠をかぶせ、葦の棒を持たせて、「ユダヤ人の王様、万歳」とからかいました。彼らは、無力な偽の王を演じさせているつもりでした。しかし、目の前におられた方こそ、真の王でした。この王は、力によって人を屈服させ、自分を守る王ではありません。自らを低くし、辱めを受け、人間の罪と愚かさを背負い、罪人のためにいのち

2026年8月2日礼拝説教

2026年8月2日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 27章11節~26節「わたしもそこにいた」 1.二人のイエス ここには、二人のイエスが登場します。一人は、力によって道を切り開こうとしたバラバ・イエス。もう一人は、剣を取らず、自らのいのちを差し出そうとしているナザレのイエスです。ピラトは、ナザレのイエスに罪を見いだせないまま、どちらを釈放するかを群衆に選ばせました。群衆が選んだのは、自分たちの願いを実現してくれそうなバラバでした。そして、黙って立つイエスに対しては、「十字架につけろ」と叫んだのです。 2.正義よりも秩序 ピラトは、「あの人がどんな悪いことをしたのか」と尋ねました。しかし群衆はその問いには答えず、ますます激しく叫び続けました。ピラトの妻は、イエスを「あの正しい人」と呼びましたが、その声は群衆の叫びの中でかき消されました。ピラトには正しい判決を下す責任がありましたが、彼が守ろうとしたのは、罪のない一人の人ではなく、ローマの秩序と自分の立場でした。正義よりも秩序が、一人のいのちよりも人々の都合が優先さ

2026年7月26日礼拝説教

2026年7月26日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 27章1節~10節「主の前に告白する」 1.罪を認めたユダ ユダは、イエスが死刑に定められたことを知って深く後悔し、銀貨三十枚を返そうとしました。そして、「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」と告白します。ユダは、自分が何をしてしまったのかを、はっきりと理解していました。しかし祭司長たちは、「われわれの知ったことか。自分で始末することだ」と、ユダを突き放しました。ユダは、自分の罪を自分で始末しなければならないと思い込み、絶望の中へと向かっていきました。 2.罪に向き合わなかった祭司たち 本来、神殿は罪を犯した者が神の赦しを求める場所であり、祭司はその人を神のもとへ導く者でした。しかし祭司長たちは、罪を告白するユダに赦しの道を示そうとはしませんでした。その一方で、銀貨が「血の代価」であることにはこだわりながら、自分たちがその銀貨を用いてイエスを引き渡させた罪には向き合おうとしませんでした。ユダの悲劇を通して、本来の役割を失っていた神殿と祭司たちの姿が明らかに

2026年7月19日礼拝説教

2026年7月19日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新 マタイの福音書 26章69節~75節「ペテロの失敗」 1.失敗を隠されなかったペテロ ペテロは、イエスのことを三度「知らない」と言ってしまいました。これほど自分の失敗が広く知られた人も、なかなかいないでしょう。しかし、この場面が聖書に残されていることで、私たちが自分の失敗を認めることへのハードルは、どれほど下げられたことでしょうか。福音書には、恐れにとらわれ、水に沈みかけたペテロ、自分の思い描く救い主の姿をイエスに押しつけようとしたペテロ、「私は決してつまずきません」と言い張ったペテロの姿が記されています。ペテロの恐れも弱さも、聖書は隠していません。それでも主イエスは、彼を見放さず、取り扱い続けられました。 2.主を知らないと言ったペテロ ペテロは、大祭司の家の中庭までついて行きました。しかし、「あなたもイエスと一緒にいましたね」と言われると、「何を言っているのか、私には分からない」と否定しました。二度目には誓って「そんな人は知らない」と言い、三度目には、のろわれてもよいとま

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