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2025年4月20日礼拝説教

  • mbchurch
  • 6 日前
  • 読了時間: 2分

2025年4月20日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マルコの福音書16章9節~20節「復活の主を信じるということ」

 

1. 信仰を言い表すこと

皆さんは「信仰」がいかなるものかを、誰かに説明をしたことがあるでしょうか。教会は、キリストの十字架にこそ私たちの救いの確かさがあると信じ、イエスが救い主であることを伝えてきました。何を信じているのかという内容は、とても重要なことです。マルコの福音書の最後の追加文は、2世紀ごろに成立したと考えられています。ここには、当時の教会の信仰の内容が言い表されています。ここで明らかにされていることは何でしょうか。

 

2. 復活の主を信じるということ

イエスの復活をそのまま信じることは、当時から難しいことでした。ここでも、弟子たちがすぐには信じることができなかったことが記されています。では、なぜイエスの復活を信じることができるのでしょうか。復活が事実であるからこそ、イエスが神の子であり、救い主であると信じることができます。そして、最も心動かされるのは、完全に敗北を喫した弟子たちが、復活のイエスと出会った後、力強くイエスのことを証しし始めた姿にこそ、信仰の確かさを見出すことができるという点です。イエスは、弟子たちの不信仰とかたくなな心をお責めになったとあります。その後、イエスは彼らに宣教の命令を与えられました。この命令には、次のように付け加えられています。「信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます。」

 

3. 信仰の力を経験するということ

イエスが語ったとされるこの約束は、他の福音書には見られない内容です。この箇所は、当時の教会の信仰の言葉として受けとめるべきものです。この時代の教会は、危険が間近に迫り、厳しい困難の中にありました。2世紀の迫害は、ローマ帝国による激しい組織的迫害だったからです。しかし、この時代の信仰者たちには、真の力強さがありました。国家権力に屈せず、迫害や死を恐れず、十字架と復活、そしてキリストにある希望を示し続けました。なぜなら、彼らは復活のイエスを信じていたからです。もし、イエスの復活を信じないならば、私たちの信仰は力を失います。復活の主を信じる信仰は、私たち自身では生み出すことのできない望みを与える力なのです。

 
 
 

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