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2025年2月2日礼拝説教

2025年2月2日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書11章16節~24節「何にたとえたらよいのか」

 

1. この時代

時代に名称をつけることは良くあることです。いつの時代も、その世代を特徴づけるような表現が用いられてきました。イエスは「この時代は何にたとえたらよいでしょうか」と問いかけ、「広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです」とたとえました。イエスは、子どもたちの遊びを通してこの時代を言い表そうとしています。ある子どもたちのグループが、陽気な笛を吹いて遊びに誘います。しかし、ほかの子どもたちは他のことに夢中で応じません。そこで、今度は悲しい歌を歌いますが、それにも乗ってきません。この子どもたちは、自分たちの思い通りにならないことに不満を抱いているのです。

 

2. たとえの意味

人々は、一方では楽しい陽気な歌を歌い、他方では胸を打ち叩き、悔い改めているかのように振る舞います。しかし、実際には、自分たちの思い通りにならないと不満を言うのです。ヨハネが来て、多くの人は悔い改めました。しかし、ヨハネが投獄されると、「この人は悪霊につかれている」と非難しました。また、「救い主よ、来てください」と願っていたにもかかわらず、イエスが来て罪人たちと食事をすると、「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と文句を言いました。結局、彼らは自分たちの期待と異なると、それを受け入れようとしなかったのです。イエスは、そんな彼らに「しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します」と語りました。この「知恵」とは、神の知恵のことです。「その行い」とは、イエス・キリストの歩み、そして十字架と復活を指しています。

 

3. 厳しさの示すもの

さらに、イエスはカペナウムの人々を非難しました。異邦人の町であるツロとシドンのほうが、彼らよりもましであると言われたのです。なぜ、イエスはこのような激しい言葉を用いたのでしょうか。このイエスが嘆かれた人々とは、私たち自身のことでもあるのです。その気づきがなければ、この先にあるイエスのすばらしい招きを十分に受け取ることはできません。イエスの厳しさは、私たちの身勝手さや愚かさを示しています。しかし、そのことに気がついたならば、神の国は私たちのもとに到来するのです。

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