2026年3月8日礼拝説教
- 2 日前
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2026年3月8日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書22章41節~23章5節「信仰と行い」
1. メシア理解と聖書の読み方
イエスはパリサイ人たちに「キリストはだれの子か」と問われ、彼らは「ダビデの子」と答えました。イエスは詩篇110 篇を示し、ダビデ自身がメシアを「主」と呼んでいることを指摘されます。救い主は単に王家の子孫なのではなく、ダビデも主と仰ぐ方です。問題は聖書の読み方でした。彼らはみことばを自分たちの願いに合わせ、イスラエル王国の樹立という枠に閉じ込めていました。しかし神のご計画は、すべての国々を祝福する広がりを持っています。福音を自分に都合のよい知らせとしてではなく、神の大きな救いの中で聞くことが重要なのです。
2. 言行不一致の信仰
イエスは続いて群衆と弟子たちに語られます。律法学者とパリサイ人は律法を教える立場にあり、その教え自体は尊重されるべきものでした。しかし彼らは言うだけで実行せず、人々に重荷を負わせながら助けようとせず、行いも人に見せるためでした。そこに欠けていたのは神のみこころです。みことばの表面だけを受け取り、神の心を汲み取らない姿勢。これは私たちにも向けられた問いです。私たちも信仰を自分の枠に収め、表向きだけを整えてはいないでしょうか。神のことばは生きていて、私たちの心を見分けます。
3. 信仰と行いを結ぶ恵み
信仰生活は罪との戦いです。決意だけでは変わりません。神を愛し隣人を愛する歩みは、キリストの十字架と復活によって与えられる「新しい心」から生まれます。信仰と行いは本来一つですが、私たちは弱く、その不一致を抱えます。その断絶は聖霊と十字架の恵みによって結ばれます。主イエスはすでに罪を赦し、仕え、愛してくださいました。信仰は主を正しく知ること、行いはその主に従って生きることです。主は行えない私たちを責めず、赦され、愛の歩みへと押し出してくださいます。この福音の恵みに生きる道が、私たち一人ひとりに備えられているのです。



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