2025年6月22日礼拝説教
- mbchurch
- 6月21日
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2025年6月22日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書15章10節~20節「心を見つめるイエス」
1. 「心の汚れ」というイエスの問いかけ
パリサイ人たちは、口伝律法に従い外側の「汚れ」を避けることが神に喜ばれる生き方だと信じていました。しかし、イエスの真意は、人々が「みこころ」を取り戻し、神の視点に立ち返ることにありました。パリサイ人たちが律法を単なる決まり事として捉え、心の真意を失っていたのに対し、イエスは「口に入るものは人を汚さない。口から出るもの、それが人を汚す」と宣言し、真の「汚れ」の源が心の内側にあることを明確にされました。
2. 心の奥底
弟子たちはイエスにパリサイ人が怒っていることを告げます。パリサイ人は民衆から尊敬されており、弟子たちが「敵」と見なしていたのはローマ帝国でした。イエスは、最も大切なのは表面的なものではなく、心であると強調されました。さらにイエスはパリサイ人を「盲人を案内する盲人」と表現し、彼らが神のみこころを理解していないと非難します。ペテロの問いに対し、イエスは「口から出るものは心から出て来る」と語り、悪い考え、殺人、姦淫、盗み、偽証、ののしりといった心の奥底から湧き出るものが人を汚すのだと、その本質を示されたのです。
3. キリストを知ること
イエスの教えは、誰もが心の「汚れ」と無縁ではないという現実を突きつけます。教会が問題にすべきは、「心」の中心に何があるのかです。人の基準による「正しさ」ではなく、神の御前での正しさ、心の在り方、隣人を愛する思いが問われています。では、この汚れた心をどうすればよいのでしょうか。イエスは、私たちが作り上げる「正しさ」を退け、ご自身こそが道であり、真理であり、いのちであると示されました。イエスを見上げ、知り、信じることによって、私たちは律法による義ではなく、キリストを信じることによる「義」を持つことができます。私たちの心は十字架の出来事を通してのみ造り変えられます。イエスを知り、十字架の力を経験していくことこそが、神の心に従う歩みへと導く唯一の道なのです。





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