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2023年9月17日礼拝説教

2023年9月17日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

へブル人への手紙12章11節~17節 「まっすぐな道」


1. 弱った手と衰えた膝

「弱った手と衰えた膝をまっすぐにする。」この言葉はイザヤ書35:3~8が下地にあります。またこのことばは、救い主が来られた時のことを預言しています。このみことばをもってイエスはご自身の到来を証しされました。そこに大路が引かれています。この道を「まっすぐな道」とするようにと語られます。競技に例えられていたように、この道を走るのは大変なことなのでしょう。ですからここでは、その道を転ばずに歩めるように、まっすぐな道を作りなさいと勧められています。それは、第一に私たちの心の状態を語っているのかもしれません。まっすぐに神に心を向け、方向を定め、さらに足元に注意し、つまずきとなるようなものを避けていく…そのようにして走り抜くのです。


2. 聖さを追い求める

すべての人との平和を追い求めるように命じられています。そして聖さを追い求めるようにともあります。聖さは神の属性です。しかし、それは特別なことではありません。私たちの在り方を神に求め、神に聞き、みことばによって正されていくことによって、私たちは聖さを追い求めます。神との関係が崩れるところに、「聖さ」は失われていきます。それは、神の最大の特徴である「愛」とは異なるものだからです。


3. 高価な恵み

さらに神の恵みから落ちないようにとあります。ここで旧約聖書の人物が取り上げられます。たった一杯の食物と引き換えに、長子の権利を弟ヤコブに売ってしまったエサウです。それは「淫らな者」「俗悪な者」であると言われています。つまり、彼は神の聖さを損なったのです。このエサウと私たちの姿とが重ね合わされています。問題は、エサウが長子の権利を軽く扱ってしまったということにあります。その根本にあるのは、「神への愛」という問題です。何を選びとるのか、何を第一とするのか、それは愛の問題なのです。キリストの十字架の恵み、そこにある神の愛を、あなたはどう扱うのか、そのことがここで問われています。それを安価な恵みとして扱うのか、神の愛によって与えられた高価な恵みとして扱うのか。まっすぐな道、その道は大路です。この大路は主イエスによって与えられたものです。私たちはこの道を走りきるため、この道を整え、まっすぐに走り抜けたいと思います。私たちは、この大きな道を、ともにまっすぐに歩んでまいりましょう。

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