2026年3月29日礼拝説教
- 3月29日
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2026年3月29日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書23章15節~39節「なお差し伸べられる招き」
1. 外側ではなく内側
イエスは律法学者たちとパリサイ人たちに「わざわいだ」と語られました。しかしそれは、ただの断罪ではなく、見失ってしまった者たちへの深い嘆きでもあります。彼らは外側を整え、正しく見せていましたが、主が見ておられたのはその内側でした。杯や皿の外側はきよめても、内側は強欲と放縦に満ちている。白く塗った墓のように、外側は美しく見えても、内側には汚れがある。ここで問われているのは、彼らだけの問題ではありません。私たちもまた、自分のこととしてこのみことばを聞かなければならないのです。
2. 私たちもその中にいる
彼らは預言者たちの墓を建てながら、「自分たちなら先祖のような罪は犯さなかった」と言いました。しかしイエスは、そのように言う彼らこそ、同じ罪の流れの中にいるのだと示されます。過去の罪を批判しながら、自分はその外側にいると思っている。けれども実際には、神が遣わされる者を退けるその頑なさは、今もなお人の内にあるのです。パリサイ人たちは極悪人というより、むしろ信仰深く、正しくあろうとした人々でした。それでも神を拒んでしまった。その姿は、私たち自身にも重なります。
3. 嘆きの中の招き
それでも主は裁きだけを語って終わられませんでした。「エルサレム、エルサレム」と呼びかけ、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたと語られます。ここには、拒まれてなお差し伸べられる神の愛があります。私たちは自分の力では本当の正しさに立つことのできない者たちです。しかし主は、そのような私たちをなお招いておられます。そして主イエスこそ世の光です。その方に従う者は、闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。この主の光に照らされながら、歩んでまいりましょう。



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