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2023年6月11日礼拝説教

2023年6月11日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

へブル人への手紙10章1節~10節 「みこころを行うために来られた方」


1. 来たるべきものの影

律法は旧約聖書に記される神のみおしえそのものです。イスラエルの民は律法を中心に置いていました。しかし、この律法は、来るべきよきものの影であって、実体ではないとこの手紙は言います。この影は、ギリシャ哲学のイデア論とは違います。聖書における影は、やがて来る神の国の写しであり、「律法」によっては完成には至らないということでもあるでしょう。ですから、もし完成に至るのであれば、礼拝する人たちは一度できよめられ、いけにえをささげることは終わったはずです。しかし、そうはならずに、ささげるたびに罪が思い出される、ということになったのです。


2. 詩篇40篇

そこでこの手紙は詩篇40篇を引用します。ここで重要なことは、この詩篇のことばがイエスのことばとして受け取られているという点にあります。ここで明らかにされたのは、繰り返しささげてきたいけにえを終わらすために、イエス自らこの地上に来て、大祭司としてご自身を示され、その務めを果たされたことです。神は、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがってささげられる物を望まず、またそれを喜ばれない、とキリストは語られたというのです。


3. キリストから来るもの

神はこれまでのいけにえを望まず、また喜ばれず、それでは決して満たされません。それは、私たちが生きている中でも経験し続けていることでもあるでしょう。私たちは、この世界で良き在り方を願います。幸せになること、健康であること、豊かであることを願います。そのために努力し、働きもします。その一方で、それらはすべて完全に得られないものでもあります。私たちの周りには、多くの不確定な要素が取り囲んでいます。そして何よりも、私たちの抱えている罪という問題が残っています。それは自分のことだけではありません。他の人の罪とも、私たちは無関係でいられません。私たちには神の憐れみと赦しが必要なのです。私たちは、イエスの完全な犠牲へと絶えず戻る必要があります。私たちも日々弱さを覚えています。それゆえに、その弱さを通して、私たちは一層、大祭司なる主イエスの執り成しを願い、そこから与えられる励ましに心奮い立たされたいと思うのです。

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