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2025年12月7日礼拝説教

  • mbchurch
  • 13 分前
  • 読了時間: 2分

2025年12月7日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書20章17節~28節「私と同じように」


1. イエスの計画と弟子の不理解

イエスはエルサレムに上る途中、弟子に向かって、これから起こる出来事を明確に示されました。祭司長たちに引き渡され、十字架につけられ、しかし三日目によみがえるという救いの計画が、ついに実行に移されると語られました。しかし弟子たちは理解していませんでした。その時、ヤコブとヨハネの母が来て、「御国で右と左に座らせてください」と願います。イエスが死と罪の力に立ち向かわれようとしているのに、弟子たちは依然として地上的な力や栄光を求めていたのです。「あなたがたは何を求めているのか分かっていません」というイエスの言葉は、私たちにも向けられています。

 

2. 「誰が偉いのか」

この願いを聞いたほかの十人は腹を立てました。そこにあったのは「誰が一番偉いか」という思いです。イエスは「異邦人の支配者たちは権力をふるう」と語り、この世界の現実を示されました。私たちもまた、死、病、喪失、孤独、評価、将来への不安といった恐れの中で、力あるものに頼ろうとします。しかし、真の権威を持っておられるのは神です。その神の権威を人が奪い、用いるときに、罪による歪みは避けられません。弟子たちの姿は、まさにその縮図でした。イエスは「あなたがたの間では、そうであってはなりません」と語り、偉くなりたい者は仕える者になり、先頭に立ちたい者はしもべとなるよう示されました。ここに神の国の姿があります。

 

3. 主イエスの招き

イエスは「人の子は仕えるために、多くの人のための贖いの代価としていのちを与えるために来た」と語られました。贖いの代価とは奴隷を買い戻す代金のことで、イエスは罪の支配から私たちを取り戻すために十字架に向かわれました。それゆえに、今度は私たちが仕える者となるよう招かれています。それは強制ではなく、神の愛と約束を知る者として、喜んで選ぶ生き方です。隣人に対して、小さな業を実践していくとき、そこに主の愛と恵みに立つ信仰が表れます。クリスマスは、イエスが私たちに仕えるために赤子となられたことを覚える時です。「私と同じようにしなさい」。このイエスの招きに、私たちはどう応えるでしょうか。

 
 
 

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