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2024年1月14日礼拝説教

2024年1月14日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書3章1節~10節 「そのころのこと」

 

1. そのころ

「そのころ」とはいつのことでしょうか。前の章を見ると、イエスがナザレに戻ったということが書かれています。またそれだけではなく、この言葉は「この時代」をあらわしています。「バプテスマのヨハネ」が現れた「そのころ」。それは、イスラエルに預言者が途絶えてから数百年が経った時のことです。それゆえに、人々の中に救い主への期待感が増していました。私たちにとって、「そのころ」とはいつでしょうか。神が相応しい時に御手をのばされるその時。それは私たちの側でコントロールできるものではありません。しかし、相応しいその時は必ずあるのです。

 

2. バプテスマのヨハネ

洗礼者ヨハネが登場します。彼は、救い主を指し示すために備えられた、最後の預言者です。イザヤ書にある「王の道備えをする役割」を担う人でした(イザヤ40:3 3~44)。ヨハネは荒野で悔い改めを叫びます。救い主を迎え入れる準備、それはエルサレムまでの通りを整備することではありません。真の王を迎えるための平らで大きな道。それは、私たちの心における変革から始まるのです。この「悔い改め」とは、王なる方を迎えるときに、その方への忠誠を誓い、まっすぐに向き直ることです。私たちを支配する罪や、まことの神ではない神から離れ、真の神へ向き直ることなのです。

 

3. パリサイ人とサドカイ人

すると多くの人々が荒野へとやってきて、ヨハネからバプテスマを受けました。その中にパリサイ人やサドカイ人がいました。パリサイ人は律法を厳格に守っていた人々です。彼らは民衆に近い立場の人々でした。サドカイ人は主に神殿や宮で使えていた人々です。裕福で、貴族も多く、権力にも近い人々でした。なぜ彼らはここに来たのでしょうか。彼らは真の王を求めてきたのでしょうか。ヨハネは彼らに辛辣なことばを語りました。彼らの心のうちをヨハネは言い当てたのです。パリサイ人は律法を自己義認の道具にしていました。また、サドカイ人は神に与えられた地位や特権を自分のものとしていました。彼らにヨハネは「神は石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる」と語り、「斧はすでに木の根元に置かれている」と厳しい言葉で迫りました。私たちの中にも彼らと同じ心はないでしょうか。私たちの中に真の王を迎える備えはできているでしょうか。

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