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2024年1月28日礼拝説教

2024年1月28日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書4章1節~7節 「誘惑という試み」

 

1. 荒野での誘惑

洗礼を受けられたイエスは荒野へと向かわれました。そこで悪魔から試みを受けるためです。ここで描かれるのは、神と等しい方であるイエスではなく、神の子とされた人間イエスです。私たちと同じようにお腹を空かせ、苦しみ、悪魔に誘惑されるイエスの姿がここにあります。イエスは荒野で四十日四十夜断食をされました。それは出エジプトの後、荒野を旅したイスラエルの姿と重なります。

 

2. はじめの誘惑

最初の誘惑、それは空腹にかかわるものでした。それは、私たちにとって当たり前の欲求でしょう。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」ここでイエスはどのような誘惑を受けているのでしょうか。あなたに与えられた特権を使って、この世界の理さえも超えて必要を満たすという誘惑です。神の子として歩むということは、自らの願いをかなえるためのものではなく、神の子として父なる神に信頼して歩み、父のみ思いを知るということです。イエスはこの誘惑にみことばを持って応えました。イエスは誘惑に心動かされながらも、みことばに神の心を読み取り対峙されたのです。父なる神への信頼を、「人はパンだけで生きるのではない」という言葉に込められているのです。

 

3. 二つ目の誘惑

次に悪魔は、イエスを聖なる都エルサレムに連れて行きます。二つ目の誘惑は、自らの手で危機を引き起こし、それを神が助けるかどうかを見てみよというものです。悪魔はみことばを使って誘惑をしてきました。しかし、これもみことばの表面をなぞっているにすぎません。ここで語られているのは「神の約束の確かさ」です。嵐のような出来事があったとしても、そこには神の御手が確かにあります。試さずとも、呼び求めれば神は応えてくださり、苦しみの時にともにいてくださるのです。私たちも、このイエスの姿に倣う者とされてまいりましょう。

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