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2024年2月25日礼拝説教

2024年2月25日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書5章6節~9節 「義に飢え渇く人」

 

1. 飢え渇く

今、私たちは何に飢え渇いているでしょうか。義に飢え渇く、そのような時があるでしょうか。聖書の語る「義」は、神にある正しさを指しています。義に飢え渇くのは、そこに正しさがないからでしょう。それは、不正や不平等というこの世界の痛みに対する感覚です。神の目から見るならば、誰もが神の前に不正をしている可能性があります。それゆえに、私たちのうちには飢え渇きがあります。その飢え渇きが満たされる、その時が来ると語られています。それは神の救いの時です。神の義は、イエス・キリストの十字架によって完全に満たされるのです。神の義は、私たちのいのちを救い、そして、この世界のすべてを救いに至らせるものなのです。

 

2. 三つの幸い

あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、彼らこそこの世界が神の国へと至る、その道に必要な者たちです。隣人を愛することが律法の中心であるとイエスは教えます。この愛は、心だけではなく、行動をともなうものです。私たちは他者への「あわれみ深さ」を問われています。みことばを学び、神のみこころを学ぶときに、私たちは自分の足りなさを示されます。それは、私たちを罪に定めるためではなく、その足りなさゆえに、神に信頼し、従うことを私たちが学ぶためです。さらに心のきよい者の幸いが語られます。聖書で語られる「きよさ」とは、神の御前の心のありようです。それは神の前に何も隠さないこととも言えます。私たちの罪の汚れは、自分では洗い流すことができません。それは主イエスの十字架の血潮以外にはないのです。

 

3. 平和をつくる者

さらにイエスが語ったのは、神の子と呼ばれる人々は「平和をつくる者」だということです。しかし、それは最も難しいことでもあるでしょう。平和を作り出すにはどうしたらいいのでしょうか。そこには犠牲が必要となります。聖書は、私たちに「赦し」を迫ります。キリストこそ私たちの平和です。なぜなら、まず私たちと神とを和解させてくださったからです。十字架の圧倒的な赦しの恵みゆえに、今度は、私たちが人を赦すものとなるのです。赦しは信仰の業です。赦しは愛の行為であり、イエスの語る赦しは、神の赦しが出発点にあります。「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和をつくる者」この幸いな姿へと、私たちも変えられてまいりましょう。

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