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2024年3月24日礼拝説教

2024年3月24日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書5章27節~32節 「明らかにされる罪」

 

1. 結婚に関する律法

この箇所は結婚に関する律法への言及です。律法において示されたのは、私たちが進むべき方向です。しかし、神の命令が人の基準に引き下げられてしまうということが起きてしまいます。この時代、離婚をする時に常に主導的な立場にあったのは男性でした。姦淫に関して、現実的に罪が問われるのは、多くは女性の側でした。律法を自分たち(男性)の側に引き寄せて、女性の側の「恥ずべきこと」とは何かを規定していたのです。現代でも、内容は異なりますが、夫婦の間に亀裂が入り問題が起きます。それは普遍的な課題です。

 

2. 情欲を抱く

「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」これは、魅力ある人に心惹かれてはならない、と言っているのではありません。心の動きの、さらにその先に起こりうることを語っています。妻以外の女性を情欲をもって見たならば、それはすでに姦淫の罪を犯している…それはこの時代、姦淫の罪を、ひた隠しにしようとした男性たちに向けた痛烈な言葉ともいえます。淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、自らの手で妻に姦淫をさせることになるとイエスは弾劾します。ここで取り扱われているのは「姦淫」の問題です。しかし、ここでイエスが扱っている真の問題とは、神の基準を人の基準へと引き下げようとすることにあります。さらにそれは、神と人との関係においても、起こりうる罪なのです。

 

3. 主イエスの招き

神に対する不誠実さは、あらゆる不正、罪へと結ばれていきます。神以外のものを神とし、自らの行動を正当化させるのが私たち人です。イエスはそのことを明らかにし、私たちの誰もが神の前に不誠実であるからこそ、神にすぐに立ち返るようにと語り掛けているのです。私たちは誰でも罪人です。心のうちに隠されたところがあります。しかし、イエスは、そのすべてを知ってくださった上で私たちを招かれます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節) 私たちは、自分たちで作り上げた基準や人の目によって縛られています。その中で自由を失い、恐れ、そして喜びを喪失してしまうのです。しかし、その罪はすべて知っているとイエスは語られます。その私たちを主は招かれているのです。

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