2025年10月12日礼拝説教
- mbchurch
- 10月12日
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2025年10月12日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書18章21節~35節「赦された者として」
1. 赦しの限界
この箇所は「人間関係」を扱っています。ペテロはイエスに、「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」と尋ねました。七回という数字は非常に寛大な提案でした。しかしイエスは、「七回を七十倍するまでだ」と答えられます。つまり、赦しには限界を設けるな、ということです。神の国の赦しは計算ではなく、神の愛に根ざすものなのです。
2. 一万タラント赦された者のたとえ
イエスは「赦し」の意味を示すために、王と家来のたとえを語られます。一万タラント(およそ六兆円)の負債していた家来は、返済不能の中で王に赦されました。しかし彼は、百デナリ(約百万円)を借りていた仲間を赦さず、牢に入れてしまいます。その報告を受けた王は怒り、「おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」と叱責します。このたとえが示すのは、私たちこそ神の前に「一万タラント赦された者」であるということです。神が私を赦されたのだから、私もまた赦す者へと招かれています。
3. 赦された者として生きる
このたとえは、私たちに「相対化」を迫ります。自分の尺度ではなく、神の視点から物事を見ることです。神の前には誰もが罪人であり、赦しが必要な存在です。私たちは時に他人を責め、赦せない思いに囚われますが、キリストはその罪と痛みから私たちを解放してくださいました。「キリストは自由を得させるために私たちを解放された」(ガラテヤ5:1)。赦された者として生きるとは、神のあわれみを受け取り、他者を赦す者に変えられていくことです。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」――この主の言葉を胸に刻み、赦しの恵みに生かされてまいりましょう。





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