2025年10月19日礼拝説教
- mbchurch
- 10月19日
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2025年10月19日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新
マタイの福音書19章1節~9節「みこころに歩むために」
1. 「正解」ではなく「みこころ」を問う
私たちは日々、さまざまな選択を迫られながら生きています。家庭でも、職場でも、教会でも、「何が正しいのか」「どうすればよいのか」と問われる場面があります。今日の聖書箇所でパリサイ人たちは、離婚の是非を通してイエスに律法上の「正解」を求めました。しかしイエスは、「正解」ではなく「みこころ」を示されました。イエスは、「神が男と女を造り、二人を一体とされた」という創造の原則に立ち返らせます。そこに、結婚と人間関係における神のみこころがあるのです。
2. 原則と現実の間に生きる
イエスは、「モーセは離縁を命じたのではなく、人の心が頑なであったために許したのだ」と言われました。つまり、律法は神の理想ではなく、罪の現実に対する譲歩として与えられたものです。イエスが問われたのは、離婚の是非そのものではありません。私たちはしばしば、行為の是非ばかりを問題にし、「これは罪だが、こうすれば罪ではない」と抜け道を探します。しかし神は、私たちが愛し合い、仕え合う関係の中に生きることを望まれます。罪を隠すためではなく、神の愛と正しさに生きるために、みことばは与えられているのです。
3. みこころに歩む者として
私たちは皆、不完全であり、神のみこころに完全に従うことはできません。しかしキリストを信じる者には、聖霊によって新しい心が与えられます。聖霊は私たちを導き、みことばを思い起こさせ、キリストの心へと造り変えてくださいます。私たちは一人ではなく、キリストのからだである教会の中で支え合い、愛のうちに建て上げられていきます。そこでは原則を学ぶとともに、罪や傷に苦しむ人々にどう寄り添うかをも考え、祈ります。正しさに固執するのではなく、愛と寛容をもって歩むことこそ、神のみこころにかなう生き方です。不完全な私たちをも主は「みこころに歩む者」として招いておられるのです。





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