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2025年11月23日礼拝説教

  • mbchurch
  • 11月25日
  • 読了時間: 2分

2025年11月23日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書19章23節~30節「だれが救われることができるのか」

 

1. 神と人との考えの違い

この箇所には、弟子たちとイエスとの考えの違いが鮮明にあらわれています。それは、私たちと神様との考えの違いでもあります。「God is God and we are not(神様は神様で、私たちは神様じゃない)」。私たちは神ではなく、人に過ぎない。そこから始めなくてはなりません。イエスは、「金持ちが天の御国に入るのは難しい」と語られ、弟子たちは「それでは、だれが救われることができるでしょう」と驚きます。イエスは、「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」と答えられました。救いは人の力ではなく、神の側のわざであることが示されています。

 

2. ペテロの問い

ペテロは、「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか」と素直に尋ねます。イエスは、新しい世界で十二の座に着くこと、そして「わたしの名のために、家族や畑を捨てた者は百倍を受け、永遠のいのちを受け継ぐ」と約束されます。続けて「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」と語られます。血筋や財産、力や功績に価値を置き、神のみこころに聞こうとしない者と、主イエスの名のゆえに、それら以上の価値を見いだす者との間に、神の国では逆転が起こるのです。

 

3. 後の者が先とされる

「先の者」とは、自分こそ前にいると思い、神の愛抜きで歩む者たち、「後の者」とは、自分の愚かさと罪深さ、この世の力では救われないことを自覚する人々です。その悲惨に気づかされたところで、私たちはキリストと出会います。「十字架のことばは…救われる私たちには神の力」です。十字架のイエスは、私たちの罪と痛みと涙を覆い、その先に永遠のいのち、復活のいのちを与えてくださいます。私たちはみな後の者であることを覚え、「どうしたら永遠のいのちを得ますか」と問うのではなく、「私が道であり、真理であり、いのちなのです」と言われる主に、そのまま飛び込んでいきましょう。

 
 
 

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