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2025年8月10日礼拝説教

  • mbchurch
  • 9月5日
  • 読了時間: 2分

2025年8月10日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書17章1節~8節「栄光のキリスト」

 

1. 六日目の山上での啓示

それから六日目にイエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られました。旧約聖書には、六日間の後に神が啓示を与えるというパターンがあります。山上でイエスの御姿は変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。さらに、律法と預言者を代表するモーセとエリヤが現れ、イエスと語り合いました。旧約全体を象徴する二人とともに立つ、栄光のキリストの姿が、弟子たちの目に焼き付けられます。

 

2. 天の声と恐れ

ペテロは興奮のあまり「幕屋を三つ造ります」と提案しますが、その言葉の最中、光り輝く雲が弟子たちを覆い、天から声が響きます。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け。」これはキリストの洗礼の場面で聞かれた言葉と同じですが、「彼の言うことを聞け」という命令が加えられています。この光景は、イエスが王としての権威を持つ神の子であり、またモーセと並び立つ真の預言者であることを示しています。そして、恐れに打ち震える弟子たちに近づき、「起きなさい。恐れることはない」と触れられる姿には、祭司として人に寄り添い、慰めるお方の姿が現れています。

 

3. 栄光から十字架へ

山上での栄光の姿は、やがて十字架での辱めの姿へと「反転」します。まばゆい白い衣は剥ぎ取られ、二人の死刑囚に挟まれて処刑される―イエスはその深い謙卑によって、私たちの罪を贖うために苦しみと恥を負われました。「長い沈黙」という物語が語るように、神は人間の苦しみを知らないのではなく、すでにそのすべてを御子イエスのうちに経験し、担われました。罪なき方が十字架で私たちの罪を負い、その打ち傷によって私たちは癒されました。栄光の主でありながら、すべてを捨てて十字架につかれた方。その赦しと愛、絶望を超える希望は、今も私たちに注がれ続けています。私たちはこの方を見つめ続け、罪から解き放たれた者として歩みましょう。

 
 
 

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