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2025年8月3日礼拝説教

  • mbchurch
  • 9月5日
  • 読了時間: 2分

2025年8月3日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書16章24節~28節「死を味わうことのないいのち」

 

1. 献身

「献身」とは、神に身をささげること、自分の人生を神にゆだね、神の御心に従って生きようとする姿勢を意味します。牧師だけでなく、すべての信仰者が、それぞれの持ち場で神に自らをささげて生きることを含んでいます。ここで注目したいのは、「十字架を負う」という言葉です。この「負う」という語は、原語では「掲げる」という意味を含みます。十字架は、背負わされる重荷ではなく、恥じることなく掲げるべき救いのしるしです。自分を捨て、自分の十字架を掲げ、イエスに従うとき、私たちは真のいのちを見出します。

 

2. 死を味わわないいのち

「死を味わわない」とは、どういう意味でしょうか。これは肉体の死を免れることではなく、神から引き離される滅びを経験しないことです。イエスご自身も十字架で肉体の死を経験されました。しかし、復活されたゆえに死はもはや彼を支配せず、私たちもそのいのちに結ばれるとき、死で終わることはありません。これが「自分のいのちを失う者はそれを見出す」というイエスのことばの意味であり、私たちが十字架を掲げて従う先にある希望です。

 

3. キリストのいのちに結ばれて

私たちはやがて肉体の死を迎えます。死は、別れや痛み、悲しみを伴う重い現実であり、最大の「敵」のように思えます。しかし真の敵は死そのものではなく、いのちを損ない、望みを奪い、死を招く「罪」です。主イエスにつながるとき、私たちは「死を味わうことがない」と確信できます。パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2章20節)と告白しています。苦しみや死の恐れがあっても、キリストのいのちと希望はすべてを凌駕します。与えられた救いの恵みをさらに深く知り、十字架を掲げながら、今日も主とともに歩んでまいりましょう。

 
 
 

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