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2025年9月28日礼拝説教

  • mbchurch
  • 9月28日
  • 読了時間: 2分

2025年9月28日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書18章8節~14節「あわれみの器として」


1. 小さな者へのつまずき

ここは「小さな者をつまずかせる」教えの延長です。小さな者とは、子どものような存在、社会的に取るに足りないとされる者たちのことです。私たちは時に、その「小さな者」となることもありますし、逆に「つまずかせる者」ともなりえます。イエスはそのような私たちに、厳しい警告を語られます。パウロはⅠコリント12 章で、からだの中で弱く見える部分がかえってなくてはならないと言いました。神の目は小さな者、弱い部分に注がれているのです。

 

2. 一匹の羊を探す神の心

イエスは続けて「小さい者を軽んじてはならない」と語られます。ここで「一匹の羊」のたとえが語られます。百匹のうち一匹が迷い出れば、羊飼いは九十九匹を山に残して探しに行く――普通なら一匹をあきらめて九十九匹を守るでしょう。しかしイエスは、迷った一匹こそ探さなければならないと語られました。ここに驚くべき神のみこころが示されています。誰もがこの一匹であり、また誰もが羊飼いとして召されてもいます。教会は、迷った一匹を探し出す群れであり、キリストのからだとして、小さな者を大切にする共同体なのです。

 

3. あわれみの器として

パウロはローマ9 章で、私たちを「あわれみの器」と呼びました。弱くもろい存在である私たちを、神はこの世界であわれみを現す器として召してくださったのです。「この小さい者たちの一人が滅びることは、天の父のみこころではありません。」というみことばは、私たちの歩むべき道を示しています。私たち自身も神のあわれみを受け、やがて来る神の国の完成を待ち望みつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 

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