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2025年9月14日礼拝説教

  • mbchurch
  • 9月19日
  • 読了時間: 2分

2025年9月14日の礼拝メッセージの要約です。説教者:倉嶋新

マタイの福音書17章22節~27節「聖なる宮とされた者たちとして」

 

1. 受難予告

イエスは「人の子は人々の手に渡され、殺されるが、三日目によみがえる」と再び予告され、弟子たちはたいへん悲しみました。十字架は福音の中心であり、罪の赦しと解放、そして確かな希望の根拠です。悲劇と勝利の逆転が約束として告げられ、私たちも「約束はあるのに現実は重い」という只中で、主の受難と復活を思い返しつつ歩みます。主ご自身こそ、からし種のように小さく見えた十字架を通して、罪という大きな山を動かされた方なのです。

 

2. 神殿税の出来事

カペナウムで神殿税の問いを受けると、イエスは「地上の王は自分の子から税を取らない。子たちには義務がない」と示されました。ご自身は神の子であり、本来納める必要はありません。しかし、つまずかせないために魚の口の銀貨で納めよと命じられます。ここでの焦点は単なる納税可否ではなく、神殿ということにあります。魚の口にあった銀貨の備えは、父なる神の主権とユーモアに満ちた配慮を示しています。

 

3. 真の神殿

この出来事は、やがて十字架と復活を通して本当の神殿が建て上げられる前触れです。私たち一人ひとりが神の住まいである聖なる宮とされ、必要は神ご自身が満たしてくださるのです。それゆえに献金は、神への感謝と献身の自発的なささげものとなるのです。私たちが日々ささげるべきことは、主を愛し隣人を愛する生き方であり、賛美です。空の鳥、野の花を養われる父なる神に信頼し、神の国と神の義を求めて歩みましょう。神は必要をご存じであり、聖なる宮とされた私たちを守り導かれるのです。

 
 
 

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